中東旅行記
2007年8月〜9月。日本を飛び出してみることにし、3週間ほど
大学の友人とエジプト・ヨルダン・シリア・レバノン・イスラエルを旅する。
別に何か特別な目的があったわけではない。
気がついたら、そんな感じだった。


大阪からの直行便でカイロへ。深夜に到着する為、とりあえず空港のロビーで一泊することになる。近くに座っていた男性に「深い意味で」好かれた友人は、なぜか翌日彼の家に泊まる約束をしてしまう。異様に多いトイレ清掃員の数に戸惑いながら、ガンガンにクーラーが利いていて寒くて眠ることなく朝を迎える。
荒い運転のバスは、カイロ市街に向けて二車線をまたぎながら進んでいく。「ここだ」と降ろされたタフリール広場は、人々でごった返している。小さな構えの店で朝食を買う。一切英語は通じないし、注文のシステムさえ全く分からない。コロッケのようなものを指さすと、サンドイッチになって出てくる。野犬がうろつくような裏通りで、外人が珍しいのか、おまけで辛い漬け物のようなものをいただいた。

カイロのイスラム地区へ向かう。カオス、パワフル。ぼーっとしていれば轢かれる。というのも横断歩道や信号はあってないようなもので、大阪で言えば内環のような交通量の多い道を車の間をぬって渡る必要がある。慣れないうちは誰かうまく渡れる人に勝手についていくしかない。
昼食にガイドブックに載っている店へ。ご飯詰めの鳩肉の丸焼き、サラダ、漬け物、パンとそれをつけて食べるソース、そしてドレッシングのように油の濃いスープがコップに入っている。食べ方も分からず隣のおじさんを片目に追いながら食べてみると悪くない。目の前には料理、しかし暑さにやられてそれほど食欲があるわけではない。
エジプトの国民食といえばコシャリ。米の上にパスタとマカロニをのせ、豆のトッピングとトマトソースをかけて混ぜて食べる。素晴らしいパサパサ感。乾燥帯のこの国で水分を欲してしょうがない料理も不思議な感じがした。


ピラミッドで有名なギザへ。ビル群の間からドーンと見えるクフ王のピラミッド。公園内に入るとクフ王、カフラー王、メンカウラー王とその前に構えるスフィンクス。一度に写真に収まらないほど大きい。実際にはクフ王のものが一番大きいようだが、なんだか中央のカフラー王の方が大きくも見える。
「ペン!」日本のボールペンは大人気で、日本人とバレとペンがほしいと訴えられる。Made in Chinaだがとりあえず見せておくが、盗られることもあるようなので要注意。おじさんが「プレゼントだ」と言って、小さな青い石を握らせ「これはピラミッドの内部からみつかった石だ」と強引に渡す。「あ、ありがとう」と返すと、「ペン!」。「ない!」と言うと石を返せと手が伸びてくる。
砂漠に来たことだしラクダに乗ってみることに。もちろんぼったくりである。観光が生命線のエジプト人は商売根性剥き出し。ニタニタ笑いが怪しいと思いながら乗れば別の男が現れ勝手にバトンタッチ。警察に見えないところでチップを要求される。
カフラー王の内部に入ってみる。蒸し暑さでやられそうな狭い通路を抜けると20畳ほどだろうか、石室に至る。壁画などがあるのかと勝手に想像していただけにあっさりとした室内は逆に新鮮であった。

クーラーが効いているようで涼しくない地下鉄に乗って、オールドカイロ。カイロは北へ北へと街が広がっていくので、旧市街は南部に位置する。新市街やイスラム地区とはまた少し違った時間の流れ方を感じる。ナイロメーターと呼ばれるナイル川の水位計測所は、比較的単純ではあるが興味深い。ナイルの水は彼方上流からとうとうと流れていた。


シナイ半島のダハブというダイビングスポットへ向かう深夜バスで、多くの日本人旅行者と乗り合わせることになる。朝が来れば綺麗な海が待っている。海岸はレストランやダイビング関係の店やホテルが軒を連ねる。
友人はクラゲに刺され、自分はイソギンチャクに触ってしまいながらも青い海を楽しむ。遠浅の浜辺ではなく、ダイビングやシュノーケル向きの海岸にはヤドカリにヒトデなど多くの海生生物が石の間に隠れている。熱帯魚屋でしか見られないようなカラフルな魚が手で捕まえられそうな浅いところにもいる。そして対岸にサウジアラビアがうっすらと見える。
1時間遅れのバスに乗って2時間遅れで着いたヌエバ。日も暮れ、真っ暗中宿を探さねばならない。人はいないし、途方に暮れそうになる。中華レストランで宿を紹介してもらい、ありがとう。アフリカン・コテージと呼ぶべきか、そんな感じ。「アフリカンナイトを楽しんで」と言われるが、暑くてハンモックで満月を眺める。波の音が次第に遠のいていく。
翌朝、目覚めると壮大な光景が広がる。木のない山に東から太陽が差す。綺麗とは言えないシャワールームに「アフリカン」を感じたことが吹き飛んだ。


ぼったくりタクシーに送ってもらったヌエバ港からヨルダン唯一の港町アカバを目指す。フェリーの時間が流動的なのはガイドブックにも載っているのだが、12時出発予定のフェリーのチケットは2時間以上待って12時半に購入、13時半出国審査をして、16時半頃出発。ちなみに4時間遅れはかなり短い方だとのことで、中には12時間近く予定の狂う人もいるらしい。しかし着いたら夜。
それにしても予想外に料金改定が為され倍額近くになっており、所持金が不足する事態が発生した。料金表の英語を誤訳して、子ども料金で行こうとしてしまった自分たちが恥ずかしい。2時間半待って順番が来てこれでは、順番を譲ってくれた人に申し訳ない。
その何かと親切にしてくれたチュニジア人の旅行者は、アカバのホテル探しでも助けてもらった。ありがとう。スペルを見ても子音が続く彼の名前を未だに発音できない。


これから免許更新でアンマンに向かうというタクシー運転手に疑いながらも乗せてもらう。真偽は不明だが、元ヨルダン王室護衛官というだけあって英語は通じる。息子は大学生で同い年だが、理系で英語もペラペラ。自分のつたない英語が情けない。どこまで信頼して良いのかわからないが、本人の自宅でコーヒーをよばれて、予定になかったコースで成り行きで契約する。

ヨルダンでもやっぱりツアリスト・プライスが存在するのか、水を買うにも1軒目はやたら高かったりする。レストランで料理を2つ頼んで「10JD」高いと思いながらも他に外人がいるし大丈夫だと思っていた。友人がおいしかったのか似たようなものを追加注文をして会計「11JD」。…??? 安レストランと比較すれば、おそらく3割ぐらいはチップの模様である。馬鹿なので、おかしいと分かるのは翌日だったりする。


ワディ・ラムは、砂漠の岩の谷。アラビアのロレンスの舞台となったところとされている。年に50日ほどの雨は、地下の地層に貯まり、アカバ方面でもこの水が使われているという。ちょっとケチって奥までは行かず、ペトラの街ワディ・ムーサへ向かう。

キングズ・ハイウェイは、シルクロードの一端。普通のバスやトラックでは通らない、景色のいい道が続く。ベドウィンの住む黒いテントと黒毛の羊たちが、時間の経過を感じさせないかのようにそこにあり、窓の向こうを流れていく。タクシーの運転手はクイズを出す。「ベドウィンのテントはどうして黒いか」。確かに白の方が温度が上がらないような気がするのに、見えるものは黒いものしかない。料金を半額にするとまで言っただけあって、答えられなかった。さらにもう1問。「大きいテントと小さいテントがあるが、その違いは何か」


世界遺産にも指定されているペトラは、壮大。グランドキャニオンのような岩の間を抜けていくと突然目の前に、岩を彫ってつくられた建造物が迫る。大きい。高さは20mぐらい、いや分からない。どうやって造られたのか、どのように使われていたのか、どうしてこの場所だったのか。自然地形としても日本では到底みることのできないようなもので物凄い迫力だが、ここにつくられた昔の街に想いを馳せるのもいい。
一気に開けると宝物殿、王の墓、円形劇場。ここまで水路が整備されていた跡なんかを見ると、やはりかなり栄えていたのではないかと思う。中心部まではおそらく川だったところだと考えられ比較的歩きやすい。凱旋門を超えてからは登山で、一番奥にあるはずのモナストリーまでは、ロバに抜かれ30分ほど歩く。暑い、脱水気味。View Pointと書かれているだけあって、天気が良ければイスラエルが見えるらしい。
一緒に行った友人は自然地形にも遺跡にも感動しないらしく、暑いし歩き疲れただけという感じであったが、個人的には旅行中最も来て良かったと思える場所であった。入場料は若干高いし学生割引の設定がないが、写真や言葉なんかでは伝わりそうにはないので実際に行っていただきたいところである。


地殻変動で湖となった世界最高塩分濃度の死海。少しぬめっとした感じの水に浸かって、水深が肩を超えるともう立てない。宇宙に行ったことはないが無重力体験に近い感じで、バランスを取るのが難しい。浮く、浮く。クロールと平泳ぎなら人並みにできる自分も、全く泳げないように感じられる。でも浮くので安心。ただ問題は顔に水がついたら一貫の終わりで、濡れた手で拭けば目は痛いし、口も痛い。ダッシュでシャワーを浴びに行くことになる。そんなわけでしっかり泳ぐことはできなかったり。
死海と言えば泥パック。体中に泥を塗りまくる。昼間であれば日焼けしてしまい、そこに塩分の高い水というのはヒリヒリするので、とりあえず真っ黒に塗ってみる。まっくろくろすけになった人がちらほら。
水際には塩の結晶が小石のようにある。一時流行ったスケルトンカラーのその粒は、磨けばダイヤモンドになりそうな気がした。


アンマン。ヨルダンの首都だけあって、新市街は整備されている感が漂う。一方旧市街は人々の活気に満ちあふれている感じがする。夕方に着いたが特に紳士服の市では、道路に服が大量にかかったキャスターや山のような服のワゴンがずっと並べられている。日も傾くと荷台に大量にキャスターが積まれているトラックが通っていく。
アンマンには香田さんが最後に泊まったホテルがあり、日本人が数多く利用している。泊まったのは別のホテルであるが、どこもとても優しそうな雰囲気で「日本人がアンマンで安全に生活できるようにするのが私の務めだ」というオーナーは、チャイとよばれる甘い紅茶から情報ノートから何から何まで親切にしてくれる。あまりの優しさに、お返しができない自分が申し訳なくなる。


古い街の遺跡、ジェラシュ。石造りの門、ローマ円形劇場、浴場跡、大きな柱の立ち並ぶ中央通り。一部は復元中であるが、暑い中見回るだけの価値はありそうな気がする。大きな円形広場では沢山の人が行き交ったのだろうか。神殿の柱は手で押すとゆっくりと揺れる。土台と柱の隙間に指を入れると、その感じがとてもよく分かる。今にある自分に、ずっとずっと昔からここにいるこの柱が何か返事をしてくれるような気がした。

引き続いてアルジュン。標高も高いので涼しく緑も多い。地方の都市としては比較的小さい方なので観光客も少ないのか、親切な人も多く、全体的に穏やかな感じがする。すり鉢状の中心部から見える山の頂上のお城を目指す途中、畑でイチジクを採っていた家族にちょっとのつもりがたっぷりと分けてもらう。美味しい。日本のイチジクと違って一口カステラのような形・大きさで、口に放り込むとジュワっと甘さが広がる。
夕方で地元の人も多く、広場は子ども連れの若い家族で溢れ、楽しそうだ。のんびり景色を眺めていると、また親切さんが現れて、カレーで味付けされたカボチャの種とコーラをいただいたり、人のあったかさに触れる。眼下に広がる光景が、より一層輝きを増していく気がした。ちなみにカボチャの種は中身だけを食べるようだが、コツがつかめず結局全部食べてしまう。なかなか難しい。
さて今まで、そしてこれから、自分はこれだけのことができるか。自分の外はお構いなしとばかりに、極力周囲との接点を持たないように過ごしてきた人間が、本当に情けなく、本当に惨めである。


シリアとの国境に近い、ウム・カイスという遺跡にも足を運ぶ。「日本人は年に数人ぐらい」 発掘調査中の日本チームの研究者は話す。大学生が数名、研究者が数名という感じ。白い石の遺跡ジェラシュとは違って、ここも同じような街だったと思われるが黒い石が含まれているのが特徴的で、「チョークと花崗岩と黒いのは玄武岩。ジェラシュよりも大きいのではないか」とのこと。今後の研究成果に期待が膨らむ。
丘の端に立てば川の流れる国境の向こうにゴラン高原が広がる。左手にはイスラエル、右手にはシリア、そしてここがヨルダン。遺跡の端の方は軍の駐屯地がありあまり近づかない方がいいらしい。やはり国境。国境というものを意識しない日本人としては、隣国が目に見えることに違和感さえ覚える。ゴラン高原の領有を巡って争うというのも分からなくはない「いいところ」である。しかし戦車や兵隊はあまりにも不似合いな美しい緑──。

イルビットというヨルダンでも2〜3番目に大きな北部の街から、セルビスという乗り合いタクシーでシリアを目指す。シリアはビザが必要で、日本のシリア大使館で取得済み。イスラエルに入国したことがある者は、シリア・レバノンなど政治・軍事的対立のあるイスラム国家では入国拒否される。それにしても入国審査の窓口には担当者が現れず待つ、苛立つ、叫ぶ。陸路での国境越えは初めてで、こんな感じなのだろうかとしか思えない。のんびり働いている感じがする。


ダマスカスは、ホテルがない。イラクから流れてきた中流層が安宿や下宿に入っているらしく、バックパッカー御用達の安いホテルは昼までに「Full!」。まして人気の高いホテルの一つが改装休業中で更に混み合っている。物価の安いシリアだがホテル代だけは値上がりも激しくガイドブックと明らかに異なる数字を提示される。なので貧乏旅行者はダマスカスに着いたら即ホテル探しである。

中東圏の国には、スタンドのジュース屋が多くある。目の前で果物を搾ってくれるフレッシュジュースは美味しい。多少ぼったくられても、日本よりはるかに安い。タマルヒンディーとよばれる紫色のジュースは、街頭に立っているお兄さんに頼む。お辞儀をするようにして背中に背負ったタンクからジュースを入れてくれる。

さて問題はセルビス。市バスのようにして走っている12〜13人が乗り込むワンボックスカーなのだが、アラビア語表記でしか行き先表示が為されていない。路線図も路線番号もバラバラで規則性がつかめない。ひたすら片言のアラビア語で「○○行きたい」と叫んで、親切に教えてくれる人を待つしかない。「あれだよ。」 おじさんが教えてくれて追いかけても、既に満員御礼。人気路線はダッシュで乗り込まないと満員で乗ることができない。アラビア語が分からない旅行者には圧倒的に不利である。10円ほどで市の端まで移動できるが、もたもたすると乗りたいものに出会うまでに半時間近くかかる。


パルミラ。別名タドモールというこの街は、砂漠の中のオアシス都市。イラクとシリア、東西を結ぶ交易で栄えた遺跡である。世界史の教科書に出てくるベル神殿をはじめとした石の建造物の数々は、世界遺産である。また塔状の4階建ての墓、3兄弟の墓は歴史的にも重要なもののよう。棺を引き出しのようにして入れる構造になっている、珍しい墓の形態ではないかと思う。
そしてアラブ城からの夕陽が美しい。砂漠の向こうにゆっくりと沈んでいく太陽。だんだんと赤みを増し、最後に何かメッセージを伝えるように光って砂埃の彼方に見えなくなっていった。
大通りの柱がオレンジ色のライトに照らされ、暗闇に映える。テレビのセットのような気がするほど、落ち着きがあってなじんでいるが、それにしても大きい。

現地の少年達が「フェラーリだ」という「自称タクシー」に数十メートル送ってもらい、ホテルへ。この日同行の友人は、知り合った現地の青年の家で過ごしたらしく、宿には帰ってこなかった。正直な話、不安だったが疲労はそれを超えて睡魔となって襲う。


水タバコというものがある。中東圏ではよく男性に愛されているもので、炭の煙を香り付きの水を通して吸う。サイダーなんかでもできるらしい。紙タバコとは異なって年齢制限はないようで、少年達も興じている。アルコールが禁止されている世界では、嗜好品として好まれていて、レストランなんかでも注文できる。1時間ぐらい楽しめるようだが、やはり煙。日本でもタバコを吸わない自分には少し辛い。

ホムスというシリア第二の都市へ。ガイドブックには商店街とあるので、地元の各停しか止まらない駅前商店街を想像していたら何のその、オシャレなまさしく「ブティック」と呼ぶに相応しいガラスのショーウィンドーが続いたりする。フランスの影響が強く、日本でもあまりお目にかかれないカラフルな女性用の洋服が並ぶ。
スークと呼ばれる市は、ごちゃごちゃした感じだが面白い。人なつっこいお兄さんが、途中一緒に行動していた日本人の女性旅行者を気に入ったようで連絡先を必死に求めていたりした。そしてボディータッチの多いホテルのオーナー。
お菓子のお会計はキロ単位で、チョコレートがいっぱい入った箱から袋に入れていく。小学生に戻った気分で楽しい。八百屋に並ぶ茄子や馬鈴薯、トマトは日本のものの3倍ほどの大きさ、巨大。パンダの赤ちゃんより重そう。(中東では標準的な様子)


宮崎アニメの「天空の城ラピュタ」のモデルとも言われる、クラック・デ・シュバリエ。山の頂上にある中世の石造りの城の内部には、モスクがある。アーチ状の天井に美を感じる。ただ周囲にはキリスト教の教会もあって、世界史の勉強をもっとしてくるべきだったと思われる、「コンスタンティヌス帝の改宗」でここも…。
屋上からの眺めは最高である。柵も何もないので強風にあおられて落ちればストーンだが、端に座った人を撮った写真は浮いているように見える。宮崎監督もこうやって想像を膨らませて──。

レバノンへ。日本の新聞紙上では内紛のイメージしかないが、中東のスイスと呼ばれ、レバノン料理は中東一美味しいと言われたりする。内心ではヒズボラとの関係で、入国すること自体を再検討すべきかと思ったが、既に旅行してきた人の話では全くそんな感じではないということであった。


バールベックというところもやはり遺跡。ジェラシュ、ウムカイス、パルミラと遺跡が続いて感動も少し薄らいでしまっているような気はするが、六角形の建物や神殿の柱は変わらず圧倒的なものである。そして壁や天井が残っているという点で興味深いものがある。天井に細かく彫られた文様は東洋的でもあり、西洋的でもある。中東、まさしく東と西の昼間に位置したこの地であるのだと感じられる。パルミラの博物館で見た石像も、ギリシャ・ローマ的な西洋の雰囲気を漂わせながらも、何か東洋的な顔立ちをしているように見えた。それが結ばれていく気がする。

冬にはスキーもできるという高い山を越えて行く。標高が高いと少し肌寒く感じられる。それにしても空中散歩しているかのように、眼下に広がる景色が素晴らしい。ヒッチハイクで乗せてくれた男性は、パンを買ってくれたり、りんごを取ってきてくれたり、親戚の家で洋なしをいただき、ジュースまでよばれなんとも優しい。

そして世界遺産、レバノン杉。もう数千本しかない。日本人には杉と言うよりは松っぽく感じられる(松ぼっくりみたいなものができる)が、どれほど昔からそこにいたのかオーラというか威厳をもったその堂々たる姿は、一流の映画俳優よりも格好よく、動かないことが勇ましさを増長させている。


ベイルートは、中東のパリと呼ばれるだけあって、街並みが美しい。そして英語やフランス語の看板も一気に増える。しかし大きな街の一角には砲弾の跡が残るビルが建っていたり、100m置きに警官がいたり、一部にはバリケードがあったりしている。旧市街も再開発が進んでおり、廃墟のようなビルは数少なく、近代的なビルに順次生まれ変わっているようである。

ちょうどここに来る数日前に、政府側がテロ犯の掃討作戦を終え勝利宣言をしたらしい。何が書かれているかは分からないが繁華街に横断幕が張られていたりするのは、その関係だったりするのだろうか。

現実の生活と、今も続く「戦い」の痕跡。その両方が並存する光景は、不思議な感じがする。日本ではなかなかお目にかかれないが、お目にかかれないことを良しとし、これをどのように続けていくかの意味を考えなければならないだろう。

レバノンは美味しい。サンドイッチと味の薄いピラフ(炊き込みご飯?)と冷めたスープの連続だった中東料理も、ここに来て玉子料理も登場。他に比べて安くはないが、(たまたま行った店がフランス料理のシェフだったから)だいぶヨーロッパに近づいた感じがした。洗練された感じがあり、オシャレである。


ダマスカスに戻って、旧市街に足を運ぶ。スークの中は、おもちゃの通り、香辛料の通り、生活雑貨の店に、業務用食料品の店、服屋、お菓子屋、本屋に八百屋に電気屋となんでも揃う百貨店である。日本のように大規模小売店舗はあまりなさそうだが、スークの発達によって大概のものは手に入る。流通センターとしての、スークは文化のセンターでもあるのかも知れない。大きなモスクが旧市街の真ん中に位置し、人々が信仰とともに生活している。

そしてアンマンへ。シリア・ヨルダンと戻っているのはイスラエルに入国するため。シリア・レバノンとイスラエルには国交がないので陸路での国境越えができないのである。


ヨルダンは、イスラエルによるいわゆる西岸地区の領有を認めていないため、キング・フセイン橋は非公式の国境、西岸地区の住民がヨルダンと行き来するためのものとして位置づけられている。そのためパスポートにスタンプは押されない。

ヨルダン川を越える。思ったよりも小さいのは夏だからであろう。中東におけるヨルダン川の意味は、ご存じの通り大きいはずだ。

さて大変なのはここ、イスラエルの入管。パスポートにはシリアとレバノンのスタンプがあるので、入念にチェックされる。担当の人も「またか」という感じで面倒だがマニュアル通りに、父・祖父の名前、連絡先、旅行のルートを確認される。待つことおよそ5時間、パスポートが返却される。依頼していないが日本人のバックパッカーは大抵ノースタンプにされる模様。そして入国。職員に女性が多いというのも国境を越えたのだと感じられる。


死海は海抜がマイナスであるが、エルサレムは700m程ある。暑さはそれほど苦にならない。旧市街は4つの地区に分けられ、クリスチャン、ムスリム、ユダヤ人、アルメニア人・クォーターとあるが、歩いて1時間程で回れる広さであるので混在感がとても新鮮であった。スークは朝と夜とでがらりと風景が変わる。段差の多い城壁の内側の2〜3m幅の道路をトラクターのような車が荷物を運んでいく。

聖地。ヴィアドドローサというキリストが十字架を背負って歩いた道、その終点に位置する聖墳墓教会には沢山の人が押し寄せる。嘆きの壁では、黒い服と帽子を身につけた敬虔なユダヤ教徒が祈っている。その向こうには残念ながら入ることができなかったムスリム地区の岩のドームが見える。

誰も通らないような信号をイスラエル人はきっちり待つ。どうも法律が厳しいらしく、歩行者の信号無視も取り締まられるようだ。しかしなんと言っても旧市街の中、ショッピングセンター、広場など人の集まるところには監視カメラが設置されていたり、セキュリティゲートがあったり。子ども達が遊んでいる公園に入るにも警備チェックが。やっぱりここはイスラエルなんだと思う。


エルサレムから一路、カイロへ。バスは治安の安定しないガザ地区を避けてエイラット経由で進む。エイラット・ターバー間は歩くことになるが、全くもって国境の緊迫感はない。係員が「Do you have weapons?」と訊く以外は。スエズ運河は夜に通過することになってしまい、残念ながらトンネルに入ったらもう出た、という印象でしかない。

この日からラマダン。バスの車内では日没と同時にムスリムの乗客がお弁当を開き、水を口に運ぶ。自分を含め非ムスリムの乗客は喉の渇きや空腹に堪えかねてこっそり食べ物を口にしてしまったが、彼らの目の前でそうしたことが後悔される。


ギザから下ったところにサッカーラという村がある。階段ピラミッドを見に行くのだが、この日もラマダン。食事と水分補給をどうしようかと悩む。警官も木陰で座って一日中動かない。ムスリムの人は本当に大変だと思う、という感想を抱くことが不謹慎かも知れないが、この戒律の向こうに幸せがありそうな気はしないでもない。凄い。

さて、ラマダン中の夕方は興味深い。街の車は一斉に引いていく。通りのレストランではテーブルに座って時を待つ人、水の入ったコップを持って待つ人で埋め尽くされる。レストラン以外でも、特設のテーブルを広げて食べ物を振る舞う店もある。放送が流れると、一斉に食事が始まる。静かだ、みな黙々と食べている。お兄さんに声をかけられ、ちょっと覗くだけのつもりが椅子が用意され、次々と料理が出される。なすがままに図々しくもいただいてしまう。メニューは馬鈴薯とトマトのスープ、ご飯に羊の肉、タマルヒンディー。お金も受け取ってくれず、ただただありがとうと言うだけしかできない。


カイロ考古学博物館。観光客がごった返す中を、歩き回る。あまり説明が書かれていないので、耳にしたことのある固有名詞のところを中心に。ツタンカーメンの部屋やミイラの部屋は別にしても、石棺や像など全体的に無造作に置かれた感じがするのがおもしろい。小さくて見逃しかねないあの王の像もある。エジプト人のガイドが日本語でガイドするのにこっそり耳をそばだてながら、順路と逆を突き進んだ。説明を聞いて理解するのもいいが、ガイドが飛ばしていくようなところも足を伸ばすと、興味深いものに会える。

さぁ空港。もう、帰らなくてはならない。なぜだかペットボトルを機内に持ち込める事態に驚きを隠せないが、駆け足で回った旅行も出発から3週間、カイロから大阪に向けて飛び立つ。11時間後の日本では、お寿司が食べたい。日本って、おいしい゜


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