クローズとクロースの妄想

 もう過ぎ去った議論だが「Web3.0」とは何かを考える。
 勉強不足だったが、ある方に教えていただいたサイトを見ていると通説的になっているのは「個人化とレコメンデーション」だそうだ。その記事の中で紹介されている、ロバート・オブライエン氏の指摘が気になる。
 「ウェブ1.0は集中化した彼ら、ウェブ2.0は分散化したわれわれ。そしてウェブ3.0は非集中化したわたし」
 「(ウェブ3.0 は)世界に参加したくないときのわたしに関するものであり、自分の環境に誰を導き入れるかをより強く制御したいというわたしの側面に関係している。ウェブ 3.0では、わたしの注意の対象が広がって、自分が注意を払うのは誰か、あるいは何か、そして自分を誰に見せるかということにまで及ぶ。それは、わたしにとってのより効率的なコミュニケーションなのだ。」
 ( 出典:ウェブ3.0の姿をつかめ:何がキモになるのか?:コラム - CNET Japan

そこで、以下、バラバラの考察。
 「注意の対象が広がって」世界は広がるのに、広い制御権が生じてしまい、排除の力も大きくなる不思議さ。「周辺事態」が国会でテーマになった時にも同じ不思議な感覚を覚えたように思う。
 どちらも「close」である閉鎖と親密。条件を多めに設定した
フィルターを通して閉鎖をすすめて「効率」を求め、そのなかでの深い親近感を創出させる形態は現代的の自由な流れであるが、どこかに危険もあるのではないだろうか。
 「効率的なコミュニケーション」の名のもとに、自分の内部だけでなく、自分の回りとの関係をデザインする。
 かじる程度ではあるがプライバシーについて考えてきただけに、パブリックとプライベートの入り乱れるウェブ上でのひとつのキーワードとして以上に何か考えることが多い。プライベートとパブリックの捉え方にも大きな影響を与えるのかも知れない。
 個人という内側から見れば外界との関係は自己を形成する重大な一要素であるからこれも自己デザイン権行使の圏内であると言える。ただそれを外から見れば、包含関係の都合、個は外界との接続によって成立していると考えられる。外界と個を繋ぐ接続を切るような行為によっては、個が存在することを証明しづらくなる。
 個人は存在を否定されないためにより開放するのか、それとも外界がこじ開けようとする圧力への抵抗権として接続デザイン権のようなものが生じるのか、難しいところである。
 受動的な制御に絞る自己情報コントロール権などの現代のプライバシー権の考え方から、パブリックとの関係をデザインするというスタンスでプライバシーを捉えてしまうのは危険をはらむが、そこに焦点を当ててみようか、そんな風に考えてみた。
※論理の飛躍とはこのこと。
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