ひとりごと:公私混同

 「公」と「共」には意味の差があると言われる。「公」は不特定多数、「共」はみんなで行うの意。主語が「みんな」で目的語が「誰か・何か」であれば「公共」ということだろうか。
 あまり詳しく調べていないくせに書くのはよくないが、妄想してみる。疑問に思ったのは「私」は何かということである。
 「私」とは、個人が行うこと、と言われる。つまり主語は個人である。では目的語にとりうるのは何か。少なくとも「私」を目的語にとることはできる。自分が自分にする行為、内的行動は「公」にはならない。でも「私」が「公」に対してした行動は、当然に「公」に属する。ということは、公私の区別は主語ではなく目的語で判断されることになる。
 なので、プライバシーをめぐる諸問題では、常に何に対して為しているかの切り替え装置(スイッチ)の状態が決め手になるはずである。実際も本人は内部にあるスイッチがオフ(私モード)の状態にあるつもり・あるべきと考える時でも、外部からはオンとして扱われてしまう時に問題となることが多い。
 実際の境界線は概念上の境界線のように一線ではない、ということが多々あるが、公と私の間の境界線もある程度の幅があるものだと考える。線というよりは境界領域と呼ぶべきかも知れない。
 ただ、この境界領域を線に近づけることが法律に求められてしまう。公と私の距離をどっちにしろ縮めてしまうのだ。自分が今までオフだと思っていたパターンが全て「私」と認められても、「公」との直接的接触が「私」の内的な空間の存在を危うくするような不安が常につきまとうことになるのではないか。ひょっとすると、プライバシーの本質はプライベートなものではなく、プライベートとパブリックの間の境界領域を守る権利であるのかも知れない。だとすると必然的にどんな内容の法律が通ろうとも、規定の明確さによってプライバシーは侵害されてしまう。
 もちろん「私」自身も他者の「私」から見る際には「公」と化すために、総意としては中間地点に決着することになりそうである。だが、本当にそれが妥当なのだろうか。
 個人情報保護法は、基本的に境界領域の内側を守るために境界の内側の確定の道を探す。でももう一つの方法として、境界の外側の確定の道が残されているはずではないだろうか。公私混同のうち、私の範囲を決めるのか、公の範囲を決めるのか、両方の方法があるような気がする。これらは同一ではないのかも知れない。
 公でもなく、私でもない、公私混在の空間は広いと思う。

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