暴想:海辺のカフカ(3)

 下巻を続ける。

「<私>は関連の内容であるのと同時に、関連することそのものである」「ヘーゲルは<自己意識>というものを規定し、人間はただ単に自己と客体を離ればなれに認識するだけではなく、媒介としての客体に自己を投射することによって、行為的に、自己をより深く理解することができると考えたの。それが自己意識」「お互いに、自己と客体を交換し、投射しあって、自己意識を確立しているんだよ。行為的に。」(下98-99)
 一次元・二次元的感覚で、存在は<点>で、関係が<線>だと思ってきた。自我の存在<点>を確認するためにはほどよい他者が必要で、同時に<線>になるというのはある意味で当然の帰結である。存在は存在のみでは存在できない、関係は関係のみでは関係できない。存在は関係であり、関係は存在である、という不思議なことになる。だが外面と内面の関係性、責任についての推測から、それは自然に定義されうる。そしてその自然な定義を交錯させる世界がこの小説の舞台というような印象を受ける。

「啓示とは日常性の縁を飛び越えることだ。啓示なしになんの人生だ。ただ観察する理性から行為する理性へと飛び移ること、それが大事なんだ。」(下101)
 これ自体が<啓示>であろうが、その大切さを享受できなかった。観察することも行為であって、それは飛び越えていないようにしか感じられないのである。思考と行動は分離しきれない。日常性は非日常性によって安定化し流動化する。逆も同様。超えていけない<何か>が、無色の啓示のように思われる。

「方向性のない無意味さ」(下241)
 スカラー。そういえばパナウェーブ研究所は、いま…。たぶん、いまの自分もこれに属するのだと思う。

「樹木はみんな同じかっこうをしていて、すぐに匿名の海に呑みこまれていく」(下312)
 匿名、アイデンティティの<無>、これが実のところの<無>なのかもしれない。なにか「方向性のない無意味さ」の林である。

「いいかい、戦いを終わらせるための戦いというようなものはどこにもないんだよ。」「戦いは戦い自体の中で成長していく。それは暴力によって流された血をすすり、暴力によって傷ついた肉をかじって育っていくんだ。戦いというのは一種の完全生物なんだ。」(下348-349)
 <戦い>にいろんな意味を投影できる。どんな意味においての<戦い>か、あるいは「どんな意味においても」か。完全生物が何を消費して成長しているのかは定かではないが、<戦い>が自己完結する以上、内的・概念的闘争の形相をしているのだろう。外的な面を主軸に考えるわけにはいかないのかもしれない。

「僕はうつろな人間なのだ。僕は実体を食い破っていく空白なんだ。」(下352)
 それも<戦い>なのか。

「沈黙は深く、耳を澄ませば地球の回転する音まで聞こえそうだった。」(下406)
 脱線。地球の回転する音、どんなものなんだろうか。雑音か、和音か、メロディーか、あるいは静寂か。

「そのさらさらという匿名的な音は、僕の心の肌に風紋を残していく。」(下415)
 この「匿名的な音」というのは、なかなかに雄弁で匿名的でない。

「遠く乾いた砂漠を吹きわたる風のような不吉でうつろな笑い声」(下454)
 「不吉」という表現がハムナプトラ的だが、実際の砂漠の風はもっとなんとなくクリスタルで太陽の季節には青く白く夜には灰色となっているように感じられたが、そもそもそこには暗号もメロディーもない<無>があって、イメージを超越した現実を注視させるだけで、そこにうつろさはあっても善悪や吉・不吉が与えられる余地はないように思う。本来<無>は<無>であって、不吉ではない。著者の世界観の本質のひとつに曖昧さがあるのであれば、対象概念として砂漠は生と死の細い境界というか、もっと鋭利でグリッドの効いたデザイン空間であるように思う。「それはべつの世界から聞こえてくる笛の音に似ていなくもなかった」(同)で、アシンメトリーな印象が協調されるが、これもどこかまた怪獣のように表と裏の中間を示す。

「周縁の外側には、空白と実体がぴったりとひとつにかさなりあった空間がある。過去と未来が切れ目のない無限ループをつくっている。」(下415-416)「リンボというのは、生と死の世界の間に横たわる中間地点だ。」(下451)
 文脈上、前方の引用の2文目は周縁の内側を指しているかと思う。フィルムの各層を分離しずらしたときに表出するズレこそが、周縁の内側である。空白と実体、生と死という二元を超えて戻る。

「自分を溶け込ませる?」「つまりあなたが森の中にいるとき、あなたはすきまなく森の一部になる。」(下461)
 すきまなく他者の一部になる、という発想と表現が融和ではなく溶解の音量を持っているように感じられる一方で、包容の意味を為しているところが印象的である。

「僕はそのとき空白と空白とのあいだにはさみこまれている。なにが正しくなにが正しくないのか見きわめることができない。自分が何を求めているのかさえわからない。」(下476)
「わしらは世界の境めに立って共通の言葉をしゃべっておる。」(下481)
「すぐ目の前に虚無の深淵が口を広げている。」(下499)
「比重のある時間が、多義的な古い夢のように君にのしかかってくる。君はその時間をくぐり抜けるように移動をつづける。たとえ世界の縁までいっても、君はそんな時間から逃れることはできないだろう。でも、もしそうだとしても、君はやはり世界の縁まで行かないわけにはいかない。世界の縁まで行かないことにはできないことだってあるのだから。」(下526-527)
 世界の外縁は極めて明瞭にかつ曖昧である。自分の中で、この世界の空間を個数として数えられない不思議な感覚にさせる。そして<有>と<無>が無限大に倒錯しあい、解決できない。<現実>が<はざま>であって、<空白>はその前後であって、これらもまた無限ループだと思う。だが、この世界を理解できない自分はこの無限ループの上で、なんらかの<啓示>を受けるまで出口を見つけられない。それは完全な静となるかも知れないし、あるいは中間であるかもしれない。
 結局のところどこか著者が潜在的に、究極的に巧妙なサブリミナル効果をもたらそうとしているのではないかとの危惧さえ抱く。感知できない<何か>という曖昧な恐怖の存在が、そこに<無>の顔をしてあるように感じられた。

「僕らはみんな、いろんな大事なものをうしないつづける」「大事な機会や可能性や、取りかえしのつかない感情。それが生きることのひとつの意味だ。でも僕らの頭の中には、たぶんん頭の中だと思うんだけど、そういうものを記憶としてとどめておくための小さな部屋がある。きっとこの図書館の書架みたいな部屋だろう。そしてぼくらは自分の心の正確なありかを知るために、その部屋のための検索カードをつくりつづけなくてはならない。掃除をしたり、空気を入れ換えたり、花の水をかえたりすることも必要だ。言い換えるなら、君は永遠に君自身の図書館の中で生きていくことになる」(下519)
 存在は消費される、減耗を予定しているといっていいかもしれない。永遠の存在はあっても、存在の永遠はない。常時・常態的に意識を現実にしなければ(存在と関係の両方の当為)維持できないのかもしれない。環境は内的に想像され、創造されていく。それを所有の概念で説明するかは別にしても、それは基本動力を有する意味そのものが外部に内在し、内部に外在することになる。つまるところ、極論として生きる意味とは生きていることであったりする可能性がある。生きる目的とは生きていることの内部化と外部化の維持であったりする可能性もある。ただ、それが何を求め、何を生むのかが未解決である。

「やがて君は眠る。そして目覚めたとき、君は新しい世界の一部になっている。」(下528)
 その最後の一行に眠ってしまうことになる。

( 村上春樹『海辺のカフカ』の読後感想としての現状記録 )
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