暴想:海辺のカフカ(2)

 若干の抜き書きと、私的回想。著作権法上の規定のために、無駄なメモが必要となる点が苦しい。同法上の引用の必要性については、今後の人生における文脈の中での必要性に替えたいと考えるが、結局のところ高度な蓋然性をもって最高裁には無視されるものと推測される。
《 注意:最後の文までのコメントを掲載したため、ネタバレ含む/あくまで私的メモ 》

「カラスと呼ばれる少年」(上5ほか)
 カラスはどうして一般的な「クロい」イメージなのだろうか。カラス=黒=闇へと続く階段は、容易な誘導であり、またある意味急激な滑り台であるように感じる。現実を超越した背景を秘めていそうでありながら、世俗的な存在でもある。二つの世界を仲介する使徒としての役回りは妥当であるが鋭利な印象はないかもしれない。また少年との関連性において、その表現が実現する曖昧さが逆に妙な灰白色の主張性を帯びる。

「ある場合には運命っていうのは、絶えまなく進行方向を変える局地的な砂嵐に似ている。君はそれを避けようと足どりを変える。そうすると、嵐も君にあわせるように足どりを変える。…何度でも何度でも、まるで夜明け前に死に神と踊る不吉なダンスみたいに、それが繰りかえされる。なぜかといえば、その嵐はどこか遠くからやってきた無関係ななにかじゃないからだ。そいつはつまり、君自身のことなんだ。君の中にあるなにかなんだ。」(上10)
 つきまとう<運命>に翻弄される存在について、その内的源流の評価が注目される。一方で反面教師的な内在活動源となり、他方で外圧的限界になる、どこか自由に束縛されるということと似ているようにも思われる。「夜明け前に死に神と踊る不吉なダンス」というエッセンスがどこまでも暗いが、その将来的観測を重視すれば永遠からは乖離する。装置としての自我とは別の存在としての「何か」、2つの<もの>ないし<こと>を連想できるような気もするが、それはすぐに一体化され混濁し酩酊し定着しては分離する。点滅するように展開される人生もしくは人間の存在が前提であれば、この印象は一種の必然性の顕れかもしれない。その砂嵐について、「形而上的であり象徴的でありながら、同時にそいつは千の剃刀のようにするどく生身を切り裂くんだ。」(上13)とされる。現実と何か、具象と抽象の連続した往来が生来的に予定されていると考えられるのだろう。

「どんな意味合いにおいても。」(上14)
 絶対的な意味・価値として、それは現実ということになる。といっても当然にというか「たぶん」<現実>には、<虚>や<無>や<夢>や<想>といったものも含まれる可能性がある。

「…結局はただの通り過ぎる地点じゃない。」(上47)
 現在もまた、同様であるように思う。それがどこだって構わないのではないか、本来は。それを構う不自然さこそ人間性なのかもしれない。

「規則正しい、求心的で簡素な生活」(上123)
 なかなかに咀嚼しにくい側面を構成しているのが「求心的」という表現で、「求心」がどういう意味を有しているのか。現実への純化なのか、自我への接近なのか。またはその二面性を有しているのか。どうでも形容詞として通過しない不規則さ、不可解な派手さを感じる言葉。

「彼は文字通り頭をすっからかんにして、白紙の状態でこの世界に戻ってきたのです。」(上139)
 さてこれは本文の文脈と関係なく。通常の連想として<記憶>が文字化され意識に記録された文書的な存在としての像があるが、知識や記憶が詰まった状態から<無>へ移行することが<白紙>なのか、文書的な情報が別の媒体・方式に変化・転送されたあと外部から接触できなくなる<内化>が<白紙>なのかは別なのではないか、という気もする。白紙には情報がないのか、読み取れないだけなのか。後者はパソコンには往々にしてある現象で、実際にそこに存在する情報へのアプローチが断たれ全てが内的化(この状態で内と外との二項対立が形成されるのかは怪しいが)されることによって外的に<無>と認識される。無論内部から外部への接触も遮断されているため完全な<無>になりうる。が、理論上の正解として正当化できるのか怪しいように思う。入れ物としての存在から、何もないのか、何もないと表示されているのか、換言すれば本当の意味での<無>なのか、あるいは<ゼロ>という情報なのかをはっきりさせることが果たして可能なのだろうか。裏面としても困難が待ち受ける。白紙に「ゼロ」と書かれてあれば、情報としては<有>でありかつ<白紙>でないのかもしれないが、書いてなければ<無>であり<白紙>という結論は内在的に不完全で、外部と内部の遮断がない状態での意識的定義でしかない気がする。そうしなければ、書いている人間のように思考が混乱し前進しないため、それを回避する応急処置的対策を無意識的に体得したのかも知れないが、それは真実を見ているのか否か。

「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から始まる。イェーツが書いている。In dreams begin the responsibilities──まさにそのとおり。逆に言えば、想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。このアイヒマンのように」(上278)
 内的な想像力は、外面に創造力となって顕れる、としたら。おそらくこのことは正しいのかもしれない。世の中を原則として定める法律は、道徳と良心の呵責という別カラムにその<責任>を委ねている。それは客観が存在しない領域を自由として保障することにもよる。他者があり内面と外面は一体である、その前提に基づいては想像力は現実であり、社会的責任は両者に及ぶ。ただ前提に合致しない場合に影響力を与える原則はない。空白地帯となっているべきはずであろう。責任というのは、客観つまりは他者の存在があって始めて存在するものであろうから、「自己責任」という流行語的発想はそもそも成立しえないのではないだろうか。それを成立させるためには、内的な想像力の活動の範囲に他者があって、空白地帯にも常時監視者があるか自らそれを外面化した全身を維持するか、もしくはこの小説のように自由に自己と他者の自己を行き来できる状態でなければならないように思う。なお「か」で接続したが多分に重なる可能性も残される。常時監視者は神であり自己であるので信教になる。全身を内面の広告に使用するという発想は外的にも認識しうるはずなので結局のところ、外面での考察と同様の結果になる。が、これを超越し重ね合うのがこの小説の世界観なのだろうと思う。

「沈黙は耳に聞こえるものなんだ。」(上291)
 そうかもしれない。無音の間が存在するということだろう。無が在るとき、それは無なのか、有なのか。

「英語にred herringという表現があります。興味深くはあるが、話の中心命題からは少し脇道に逸れたところにあるもののことです。赤いニシン。」(上374)
 まったく脇道。参考までに。 http://www.eigo21.com/etc/kimagure/z122.htm

「過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合取りかえしはつく。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。」(上385)
「ひとりあるきするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。」(同)それはまさに今の自分を取り囲む全てのもの、かもしれない。寄生虫に取り憑かれたら、救いはない。

「…つまり相手がどんなものであれ、人がこうして生きている限り、まわりにあるすべてのものとのあいだに自然に意味が生まれるということだ。…一番大事なのはそれが自然かどうかっていうことなんだ。」(上400)
 熱い。存在と関係に関するひとつの回答であると思う。そして自然と不自然を分けるものが見えてくるのではないだろうか。やや敷衍させてしまうが、意味と無意味のあいのこがある。というか、自然と不自然、意味と無意味の2軸によって表せば、4つの領域が存在するのではないか、そんな気がした。

「ドアのかげに立っているのは/文字をなくした言葉。(…略…)/心の輪が閉じるとき/どこにも行けないスフィンクスの/影がナイフとなって/あなたの夢を貫く」(上480-481)
 どこまでも「メタフォリカル」で難解である。関連性の限界のようにも思える。個別に検討すると芸術性が損なわれそうなので、現存する価値を温存するためにでも、感覚的に捉えるまでにしておきたい。

「意味のない暴力」(上484)
 反対の意味としての「意味のある暴力」とは何なのだろう。「価値のある暴力」とは何なのだろう。背反事象に悩まされるが、暴力そのものが無意味であるような気がする。それは先述の不自然な関係が構築される一要因でしかないからではないだろうか。

「不条理の波打ちぎわをさまよっているひとりぼっちの塊」(上485)
 これ「海辺のカフカ」であって、世の中すべての人の姿だったりするのではないだろうか。
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