掛算:MUDA「大人の算数」展

 「___」×「___」=「 大人 」
 ごく僅かの知っている人だけが知っていると思われる、MUDA「大人の算数」展。分析的思考アプローチを展示する訪問者参加型ウェブ展覧会ですが、開始から2ヶ月ほど経ったこともあり、みなさんからいただいた作品の一部公開を開始しました。ご覧になりたい方は、ご自身の作品を回答した上でご覧いただけます。今後も引き続き投稿をお待ちしております。
 [ MUDA ] http://aspos.info/muda/ をご覧ください。
 個人的に意味深いなと感じたものをいくつかコメントさせていただきます。

「 願望 」×「 解釈 」=「 真実 」
 これは「真実とは何か」を2つの言葉で説明していただいたものです。米軍占領下のイラクを描く事実に基づいたフィクション映画「リダクテッド 真実の価値」(リダクテッド=都合の悪い情報を削除したもの)にヒントを得て、何らかの不動のものへの探求としての出題でした。期待をうまく裏切っていただいた作品を拝見して、改めて考えさせられるものがあります。誰かの目を通している以上、事実と真実には差があるのかもしれません。そして他の誰かの目を通す真実との差も。新たな視点を提供してくれる作品です。
 この問いには、別の作品も寄せられています。
「 目 」×「 耳 」=「 真実 」
 先述の映画のコピーは「信じるな、自分の目で見ろ。」で、事実に近い情報には自分で近づくしかないという意味において、この作品の指すものも似ている面があるように感じられます。ですが、前者の作品と合わせて考えると、両者に接点があるのが見えてくるのではないでしょうか。
 真実そのものが不動だったとしても、私たちが真実と考えるに至るプロセスの中にレンズの誤差が生じることを前提に考える必要があることを、強く意識させられます。

「 教育 」×「 学習 」=「 偏見 」
 中等教育までのシステムの都合で「教師=正しい」といった感覚がどこかにあって、多感な青少年期の教育で形成される偏見も少なくないように思います。教育はそれらを最小限に抑えるべきなのでしょうが、一方で社会生活を円滑に営むための方法論としてのパースペクティブを与えているのは事実かも知れません。そういった教育での方向性の定義を少しでも誤ると、その後の各々の「学習」において偏見は増していく可能性もありそうな気がします。自分の場合、部落問題への姿勢について自身に偏見があるようにも感じている今日この頃であることも影響してか、そういった意味で、一考のある作品です。

「 チロルチョコ 」×「 手作りのチョコ 」=「 格差 」
 この展覧会をしてよかった作品のひとつ。殺伐とした社会とは対照的にかわいくて、なにかぬくもるものがあります。手作りのチョコはパートナーにもらっていただくとして、個人的にチロルチョコの方をプレゼントしたい作品です。

「 無駄 」×「 MUDA 」=「 ゴミ 」
 自身の推す無駄論に対するコメントは、なかなか嬉しいもの。ゴミにこそ、というかゴミにも「いい無駄」があるのではないかと思っています。いい/悪いという形容は不適切かもしれませんが、考えるヒントになるという意味では肥やしであって、と言いたいところなわけです。ただの無駄なゴミにならないよう、MUDAではこれからもそんなところを発掘していきたいと考えます。

リンク・コメント(0)
リンク・トラックバック:
コメント: