方法:映画「パラダイス・ナウ」

 映画「パラダイス・ナウ」は、ウエスト・バンクの街ナブルスを舞台にした物語。パレスチナに暮らす若者が、「決行」に至るまでの48時間を綴る。フィクションとはいえ撮影も銃撃の中の現地で行われており、ドキュメンタリーにしなかったことが却ってストーリーに現実感を与えている90分。
 詳しくは配給元UPLINKの「パラダイス・ナウ」を。
 また、GyaO!で無料鑑賞が可能なのでこの機会に、GyaO!にて。以下は、ストーリーにも触れるので、観る人は先にご鑑賞を。

 「占領下」のパレスチナを訪れたことはまだないが、物語の前半で描かれるパレスチナの空気は、隣国ヨルダン・シリアで見た風景と重なる部分が多い。乾いた土の丘、水タバコ、食事、その日常を送る彼らの深層に置かれるヨルダン川の壁…。
 やがて本題へと進む物語の後半は、考えさせられるセリフで満ちている。途中ハーレドとスーハが車内で言い争うシーンがある。

ハ「自由は戦って手に入れる。不正がある限り、犠牲は続く」
ス「犠牲じゃない、復讐よ! 人殺しに犠牲者も占領者も違いはないわ」
ハ「奴らは空爆する。俺たちは自爆しかない。まったく違う」
ス「何をしてもイスラエル軍のほうが常に強いのよ」

ス「残された私たちはどうなるの?こんな作戦で勝利すると思う?あなたの行動が私たちを破壊するのよ。そしてイスラエルに殺す理由を与えるの」
ハ「理由がなくなれば?」
ス「殺さない。モラルの戦いをするのよ」
ハ「イスラエルにモラルなんてない」

 一方、サイードの理論。
「僕は…難民キャンプで生まれた。西岸から出たのは一度だけ、6歳のとき。手術を受けに行った、その一回だけ。ここでの生活は牢獄と変わらない。占領者はとても罪深い。最悪の犯罪は人の弱さにつけ込み、密告者にすること。そうやって抵抗者を殺し、家庭を破壊する。人の尊厳を踏みにじり破壊する。父が処刑されたとき、僕は10歳だった。父は善良だった。だが弱かった。占領者には僕の父を奪った責任がある。密告者を雇うのなら、占領者はその代償を支払うべきだ。尊厳のない人生…来る日も来る日も侮辱され無力感を感じながら生きていく。世界はそれを遠巻きに眺めているだけだ。我々だけで、この抑圧に直面しているなら、不正を終わらせる道を見つけるべきだ。我々に安全がないのなら、彼らにも安全はない。力じゃない。力は彼らの助けにならない。これを彼らに分からせたい。ほかに方法はない。さらに悪いのは、彼らは自分たちを被害者だと確信してる。占領者が被害者だと? 彼らが加害者と被害者の役を同時に演じるなら、僕らもそうするしかない。被害者であって殺人者となるしか…」

 この意見の構造は、パレスチナという地の内部で現に在る葛藤なんだと思う。おそらくイスラエルでも、似たような葛藤があるのではないか。

 タイトル「パラダイス・ナウ(PARADISE NOW)」の意味が分からなかったのだが、監督の語る解説を読むと、ハーレドとスーハの口論を思いだして納得した。

ハ「平等に生きられなくても、平等に死ぬことはできる」
ス「平等のために死ぬのなら、平等に生きる道を探すべきよ」

ハ「死は平等だ。俺たちは天国に行ける」
ス「天国は頭の中にしかないわ」
ハ「地獄の中で生きるより、頭の中の天国のほうがマシだ。占領下は死んだも同然。それなら別の苦しみを選ぶ」

 神がつくった、現世と来世の境界斜面をどう渡るのかが、幸福と慰めとともに副産物としての不幸を生んでいる気がしてならない。平等に与えられるはずの幸せを信じれば信じるほど、現状との乖離で不幸になっていくことが悲しい。そして幸せになりたいと思えば思うほど、不幸な結果を招いていく。

 さて、先述の主人公サイードが語る部分に、ぐさりと刺さる一言がある。

「世界はそれを遠巻きに眺めているだけ。」

 アメリカの仲介にヨルダン川の溝は埋まるのだろうか。そして、日本という土地から眺める以外に何ができるのだろうか。その方法は。
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