作詞:西野カナの反芸術性

 西野カナというアーティストの歌詞を、マツコデラックスがコメントしたことについて、ネット上で「的確だ」という意見が高まっている様子。
 この件について、もう既に数時間悩まされ続けている。埒が明かないので一旦文字化しておき、もっと理解力や想像力が高まった段階で再考することにしようかと思う。
 思考のきっかけになった対象の記事は以下の通り。

「マツコDX兄さんの言うことが的確すぎる件」
http://blog.livedoor.jp/himasoku123/archives/51561845.html

「『ありがとう、君がいてくれて、本当よかったよ・・・』なんて詞をどう解釈しろというのよ。どこに心の機微があるの?「ありがとう」ということを自分なりの言葉に代えて表現することこそが、作詞活動じゃないの?
あのボキャブラリーでよく歌詞なんか書こうと思ったものね。あんな三歳児でもわかるようなフレーズじゃないと、今の若い子たちは共感できないの?そんなに想像力がなくなっているの?あの稚拙な歌詞を見せられて、『小学生の読書感想文じゃないんだぞ』ってツッコミすらできないの?
等身大の思いというのは、いつの世にもあったけど、自分のことを世代の代表として選ばれたアーティストとして自負しているなら、カッコつけようとかプライドがあるはず。でも、それが西野カナには微塵も感じられないのよ。
彼女だけが問題じゃない。こんな薄っぺらい歌詞を、何の疑いもなく支持してしまっている女子高生たちの精神構造もわからないのよ。与えられたものを、何も考えずにそのまま受け入れているだけ。だから、あんな詞に対して『そうだよね。わかるぅ。友達と会えてよかったよね』ってなるのね。」

 確かに、彼女の曲は激しく「ありがとう」「会いたい」という文字列によって網羅されている。複数の曲の歌詞を読んで衝撃を受けるほどだった。それはボキャブラリーのなさを露呈しているだけにしか感じられなかった。薄い、浅い、中身がない、そんな感情しか最初は得られない。マツコデラックスの指摘は「的確」である。

 でも、と考えてみる。

 たとえば、ひたすら「会いたい」にこだわることの芸術性について。
 先日逝去した榊獏山という書道家がいたが、彼の一文字だけの大書が有名であったりする。同じ文字ばかりをひたすら書いていたというような話を聴いたことがある。
 西野カナもこのままただひたすら「会いたい」をずっと訴え続ければ、それはそれで芸術性は高いと思う。会いたいという言葉を、いかにあらゆるメロディーとリズムとグルーブに位置づけるかを徹底的に極めてしまうとどうだろうか。誰も追随できないと思う。ずっと会えていない人なのだろうから、近くにいない人だと思われるが、自分ならそれを極める前に別のすぐ会える人に会いに行ってしまう。そこを超えての「会いたい」であれば、もうそれは僧侶的というか、悟りの域なのではないか。

 続いて、もしかしたらあえて「自分なりの言葉に置き換えない」ということの芸術性について。
 西野カナはある意味、現代の樋口一葉ではないかと思う。超口語体。ケータイで話す言葉にメロディーがついただけといった印象。完全メール語体と言ってもいい。ストレートで表面的というか、中学生のラブレター的というか、歌が果汁10%位というか。歌詞は殆ど気にしない自分だけど、この斬新さには驚く。そのうちTwitterで歌ができそうである。
 日常的な普遍性あふれる普段使いの言葉のままの表現の追求が「会いたい」という、どこにでもありそうなこの平凡な言葉に集約されているのなら、濃縮還元の技術があまりに高くなかなか真似できないと思う。

 さて、「芸術=人間のための人間的活動」、そう定義したとき、西野カナはこれまでの芸術のポジションよりも野性的な位置にあると思う。とにかく誰かに会いたいことをストレートに伝えることに専念し、そこに矛盾などない。だがこれで芸術が爆発したら、人間的であることとは一体何なのだろうか。
 いや、芸術という枠内で彼女の歌を考えることが間違っているのだろうか。もっと裸になって動物的な感覚の必要性を訴えているのかも知れない。大人たちの古い慣習や、世の中の矛盾や、社会の複雑な因果関係や、感情の交錯・浪費される葛藤をリセットすべきだと。これは一芸術論的にはありだと思う。個人的には、そのような風潮・方向性は、中露との外交を考えると「今」には合わないし、受け入れづらいが、それもリセットの対象となるのか。そうなるとかなり高度な政治性をも含まれてしまう。

 ふと、彼女の歌詞を読み返してみる。──世界観がないのではないか。
 理解不能な阿久悠の歌詞でもあったものがない。歌に織り込まれるのは、日常性であって、非日常性がない、普遍的な毎日の感情のみである。
 井上陽水や中島みゆきや槇原敬之の曲にあるストーリー性や余韻のある叙情性について、彼女から同様のものを感じるには、かなり高等な読解力と想像力が必要だと思う。聴き手に世界観までの創造をも要求する高度な歌だ。歌は何もきっかけを提示しない。聴き手にすべて責任を丸投げし、自由という重い負担を与え、イマジネーションの底なしの泥沼に飛び込ませる。

 これは今までになかった芸術ではないか。厚み・深み・きっかけ…。何もない、それが却ってブラックホールのような不可解な奥行きを提供してくれるのではないか。読み取ろうとするべき手がかりも提示してくれないだけに、その領域に立ち入れなくなる。黒い。歌を色で感じたことがないが、その形容詞しか、もう頭に浮かばなくなる。不安定な葛藤によって、思考は停止させられる寸前まできてしまう。

 このままでは立ち直れないので、いったん表現の表層に立ち戻ってみたい。

 果たして、彼女は何に「会いたい」のか。
 旧友や別れた彼氏なんかではないと思う。
 仮に「近所のコンビニの店員」であった場合、都会の孤独感をそこまで叙情的に表現していることに感服してしまうが、悔しくてつまらない。
 もっと宇宙的なもの、もしくは概念的なものなのではないか。
 仮に対象が「神」であれば激しい歌である。君のそばにいるから、と言ってしまっている。彼女は一体何様なのか。
 仮に会いたいのが「ラジウム原子」だったらもう自分の勉強不足を謝るしかない。アルカリ土類金属なので、燃やすと炎色反応で紅色に光るやつだ。そんな放射性のあるこんなものと出会いたいとかだったら、もう彼女は危険すぎる。ぜひ会いたくないとすぐに返歌を詠んでほしい。
 具体的な世界観がないだけに、「君」の捉え方次第では、あらゆる解釈が可能である。「君が代」並みではないか。

 これ以上の解釈の広げ方は、もう爆発である。

 彼女は多分何も考えずに書いたという気がしてならないが、その分だけ悩む人間を生んでしまうというやっかいな反芸術性、むしろ芸術性が面白い。

※ザ・無駄な半日の過ごし方。
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