横柄:反省のない言い訳

 ここのところ、自分と同世代ないし少し若い人のブログを読む機会が多くなった。書いている内容が自分の今の生活・考え方・将来像などよりも、はるかに緻密で大胆な希望がこもっていて、心を動かされる。
 今の自分にできることなどそうそうないのだが、今後もできることなどないのではないかとは思いたくはない。
 昔からネガティブ思考が世界を救うという最も浅はかな悲観主義の楽天家であったが、培ってきたネガティブな考えが実は目指してきた本当のネガティブではなかったということを感じ出した。これまで周囲の意見に大方反論することを心がけて生きてきた。チームワークを乱してきたし、空気を悪くしてきたのも、謝罪の念しかないが誤りのない事実だと思う。ただそんな行動も「吸引力のある別要素」の提示を目指してきたから。ある意見に対して、それが本当に素晴らしいことを証明するためには、時には批判的な意見を挙げて別の視点から再考し、「それでもこれがいい」と最初のAという路線を行くのか、「それもあるな」とBという別路線を探すのか、AとBの折衷案やそれとは違う別の道Cを切り開くのかの交差点づくりをしてきたつもりだった。
 でも。ここのところ自分が今までたどってきた道の延長線上にある意見を、とりあえずその場に落としてみてどうなるかを眺めて試す傍観者的役割ことしかできていないような気がしている。当事者としてのクリエイティビティや、生きる人間としての感覚などが含まれていない発想しか出なくなってきた。いや発想でもなんでもないただどこかにあった形のないもの、空虚なものでしかない。それは何もしてこなかった自分への戒めでもあるのだと思う。

 先日、職場の先輩の一人に言われたこと。
 「お前って、今まで何かに本気で打ち込んだことがあるの?」
 確かに。分かっていたことだとはいえ、戒めてきたことだとはいえ、中身のない自分の内側が、それがやはり外面ににじみ出てしまっていたのかという再認識の感覚。今まで自分を励ましてくれた多くの人々と同じように、人間として問いかけられた言葉はここのところ止まってしまっていた心の中のストップウォッチを再起動してくれたように感じる。
 ずっと、本気で生きたい、本気で仕事したい、本気でつくりたい、と思ってきたつもりだったが、やはり本気で動いたことはなかったのかもしれない。受験も就職もスポーツも、いくらでも身に弾を込めるような、自分のばねを鍛えるような機会はいくらでもあったのに、何の力もこもってなかったし、何の気持ちもなかったかと感じてしまう。ただ何となくの25年弱。それが相変わらず自分の100%の構成要素なのだろうと思う。
 少し環境に恵まれ過ぎたのかもしれない。やさしい友人、尊敬できる人々、少しだらしなくてもよくできた家族に囲まれ、ある程度のものは揃う土地で暮らせ、恐怖や困窮の雨の降ることのない、その豊かな土壌にいてそれを活かせなかった。風雨に耐えられず、日陰を気ままに這い、感謝の実をつけることもなく。かといって謙虚に慎ましく生きることもできず、他者を責めてしまう。そんな何もないウイルスよりも小さな生き方。

 ラジオから聞こえてきたフレーズ。「当たり前と思う心が、人を醜くする」。ありがとうを言わなくなった、挨拶をしなくなった、適当に済ませてしまうようになった…。考えてみると、醜い自分の姿を鋭く指摘している。
 3月11日、職場で遭遇した震災のとき、同僚の避難を考えるよりも先に仕事の依頼を優先してしまった。自分さえ生きていればいい、自分の周囲1mのことしか見えていない、自意識過剰を含む人間としての自分への不信感、そんなことを後々考えさせられている。あのとき何を考えていたのか、日頃何も考えていなかったのか。醜悪な態度で、醜悪な空気をつくってしまっているのではないか。

 同世代の活躍、先輩の言葉、誰かの名言。繋がっていないものが、重なってきたこの時期に、心のマッチを擦ることができるのだろうか。

※見直そうか、ジブン総点検。
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