決断:苦渋の思案

 何を隠そう、自分は優柔不断なのである。
 先日出席した友人の結婚式の引き出物の中に、カタログギフトがあった。カタログを見るのがとても楽しい。注文などしなくても眺めているだけで心地よい気持ちになる。だが、いま重大な局面を迎えている。そろそろ何を注文するかを決めるべきときだと思うのだ。問題は何を選ぶべきかということであり、国政選挙で6年も国の将来を任せる人物を選ぶよりもはるかに厳しい決断を迫られるのである。
 いま実に悩んでいる。人生においては、すべての決断が将来を左右する。人生においてはすべてが本番であり、決断の連続であり、誤った判断をしてもゲームのようにリセットして時間を元に戻すことはできない。そう、このカタログギフトを選ぶことによって、どんな明日が待ち受けているのか、私にも、そして贈ってくれた新郎新婦にさえも、誰にもわからないのだ。
 手元にあるカタログにはたくさんの商品が綺麗な写真とともに並んでいる。食器やタオルといった定番から、雑貨、食品、温泉チケットなどジャンルもさまざまである。すべてのものに目移りしてしまい、優劣をつけるのが困難を極める。人間の優劣はすぐに決めることができる。自分よりもその他のすべての人の方が優れているという、一次不等式が成立するので、まったく迷うことがない。だが、すべてをカタログ化して並列してしまうと、どれもが良さそうに見え、一方でどれもが何か相応しくないところがあるのではないかという生真面目な猜疑心のはみ出しが、判断要素になってしまうような気がして、甲乙をつけることができない。Googleの検索結果ようなランキングがそもそもないのである。こういったところでは、自分もデジタルネイティブなのだろうかと、普段の発想の着眼点の諸問題を感じさせるところでもある。
 ではまずジャンルを決めよう。食器や調理用具などのキッチン雑貨にするか、タオルなどの生活用品にするか、はたまた財布やカバンといったファッション小物にするか、いやいや消費してしまうことで家の中に貯まらない食品にするか。2名様の温泉チケットは独り身で消費するのが難しそうだし、我が家には子どもも居ない(霊的なものとして同居している可能性があるかもしれないがそれは除く)ので玩具や子供用品も避けることにする。選択肢を絞れるということの喜びを感じられるのは実にセンター試験以来だろう。ページをめくっていると、おっとここで、アウトドア用品やガーデニング用品、スポーツウェアなどもあることに気付く。悩ましい。
 必要性という観点から絞ることにしてみよう。まず料理にこだわる方ではないので、鍋や食器の必要性が高いわけではない。フライパンや片手鍋は普段使いのものがあって汚れてきてはいるものの、特に買い替えるタイミングでもない。天ぷら鍋や卵焼き用の鍋もそれほど使用頻度が高くもない。タコ焼き器は既にあるし、ヨーグルトメーカーもホットサンドメーカーも、朝起きてから数十分で家を出る男の生活ではきっと3日も連続で使うことはない。食器も、誰かが遊びに来ることなどこの1年以上全くなかったので、候補から消しておく。ペアカップがあっても、背後霊と一緒にティータイムを楽しんでしまえば、この国ではきっと通報されてしまうだろう。世知辛い。2杯分が一緒にできるコーヒーメーカーまである。こんなものを所持してしまうと処刑されてしまう危険性を考えなくてはならなくなるかも知れない。一体誰が弁護してくれるのだろうか。
 ではファッション小物はどうだろう。カバンがたくさんある。カタログの中にもたくさんなのだが、押し入れの中にもたくさんあるのだ。つまり多くは使われていないまま眠っているのである。いま断捨離のマイブーム(といっても10分前に始まった)であり、箪笥の肥やしを増やすことにはいささか抵抗があるので、これも避けておこう。ベルトなどの消耗品は候補になり得る。だが結婚式の余韻に浸れる幸福感のおすそ分けタイミングのこの機会に、普通のものでいいのだろうか。せっかくなので特別なものを選ぶべきなのではないか。そう考えると本命にはできない。同じ理由でタオルも普段使いのために選ぶのは満点の回答ではないだろう。困った。他にはないのか。
 ないわけではない。食べ物もおいしそうなものが並ぶ。お菓子、肉、ご飯の友、美味しそうだ。だが。(「だが」という言葉の多用によって、ブラックマヨネーズの漫才並みの逆説の接続詞を氾濫させているのは反省しているが)無論ケチをつけたいわけではない。このお取り寄せ感のある食品を食べるときに、いかにして幸福感の力量を最大化して、コストとなる無駄を最小化(=享受する者の心が元から温まっている状態で心の温度をマイナスからゼロにするための消極的な幸福感の消費を抑制すること)して、素材そのものが持っている「生なるパワー」を活かせるかということについて、自信がない。きっと美味しいはずだ。でもそれを深夜1時頃にマツコデラックスが出演する番組を見ながら寝転がって夕食を食べている堕落的生活の中で消費することを考えると、申し訳なさが先行してしまうのである。神様に罰せられる。
 では選択可能なのは何か。目に留まったのはなぜか園芸用の刈込狭である。あろうことか剪定用鋸とセットになっている。このコンビネーションに、テレフォンショッピングのようなドラマ性があるのはなぜだろう。不思議だ。庭のないアパートに住んでおく人間の心を踏みにじっている。憎い。
 ビーチテントなるものもある。東京都内の奥地でガリガリ色白という自分の状態に対して喧嘩を売ってくる秘技を内包している。ちゃっかりグラスファイバーを使っているあたりが、スペックが気になるおじさんの性を挑発していると言える。
 もっと危険球もある。それはスペースペン。宇宙でも使える唯一のボールペンと書いてある。なんだそれは。流線型のフォルムに真鍮製のボディ。不思議とくすぐるものがある。東急ハンズにあったら、まず手に取って書き味を試すために「あ」を50回ぐらい書いてしまうだろう。だがここで冷静になって考えてみよう。パソコンを使う生活でボールペンを使うことすらほとんどどなくなってきているのに、まして宇宙まで行ってボールペンを使う日が自分に訪れることはあるのだろうか。その頃まで生きていたいと思うなら、もっと健康的な生活を心がけて置くべきだろう。私には100年ぐらい早いかもしれない。そう思いだすと、一気に何万光年も先まで候補としての位置づけが遠のいていく。そうだ、100円ショップで売っているジェットストリームやサラサの書き味の良さは、日本の誇りだ。アメリカ製などに気持ちが靡いてしまっては、愛国心がないと言われてしまいかねない。君が代や日の丸や自衛隊に対して表わすのが愛国心なのではない。この国で生まれたすべての価値や文化や感情を愛せるかどうかが問われているのだ。ペンは剣よりも強い。私はこの国の100円で買えるボールペンをこよなく愛している。まだ引き出しにはストックが10本ぐらいあるはずだ。ここで折れてはならない。
 ページをめくると、出てきたのはコードレス半田ごて。こんなの反則だ。ダメだ。絶対に年に1回も使うことはないのに、なぜ欲しくなるのだ。ダメだ、誘惑に負けてはならない。ドン・キホーテで2時間悩んで心を落ち着かせて買わなかったあの日から、もう作るものを決めずに半田ごてを買うのは絶対にしてはいけない重罪にあたることだと胸に刻んだのだ。電池式。そんなことに揺るがされてはいけない。確かにあのとき、このコード邪魔そうだなと思ったことはある。中学の技術家庭科を思い出してみよう。ラジオの配線をつないだときの至福のひと時。あの独特の感覚をこの国の教育を受けた人なら覚えているだろう。そして、ボールペンのような細さならもっと気軽に半田ごてを使えるのではないか、シャーペンのように半田自体も内蔵できるようになったらみんなペンケースに半田ごてを入れて持ち歩ける素敵な時代が来ると、誰もが輝かしい未来を悟ったと思う。それに近い。このカタログは罪作りである。こんなところにそんなものが登場すると思っていないところに、載せるのだから。ダメだ、ダメだ、誘惑に惑わされない信念だけが、明日の自分を形づくるのだ。冷静にならなくてはいけない。目を閉じて深呼吸をするのだ。
 ここですべてのページを一通り見たことになる。実際にはこういった行為を毎週末に行っているので、3、4回やっている。そして一つの結論に至る。今は決められない。だがいつかきっと決心がつく日がやってくるだろう、と。
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