頭痛:なぜ表札はなくなるのか

 ここのところいつも頭が痛い──。
 また我が家の表札が持ち去られた。「また」というのは、初めてではないからである。
 表札といっても集合住宅に住んでいるので、郵便受けに差し込む名刺大のカードである。お金にもならないし、他人の名前が書かれた紙切れを誰も欲しいと思うことはないだろうし、盗もうとすることなどあり得ないと思って、30年近い年月を生きてきた。ただそれは大きな過ちだったのである。
 仮に百歩譲って、盗みたくなるような表札があったとしよう。ただ外形として名刺サイズの紙状のものという前提で考えることにする。それは金粉がついているものかもしれないし、よっぽど珍しい名前で全国に数人しかいないような苗字なのかもしれないし、立派な門構えの家で将来こういう成功を収めたいと思えるようなものかもしれないし、憧れの有名人と同じ名前でサインの代わりに手に入れておきたいと思うものなのかもしれない。
 でも今回持ち去られた表札はそのどれにも該当しないのである。安物のインクジェットプリンターで出力したアルファベットの文字が書かれた紙であり、100円均一ショップでも印鑑が売っているくらいのどこにでもありふれた苗字であり、木造アパートの入り口の門扉はキーキー音が鳴る。もしかしたら有名人に同じ苗字の人はいるかもしれないが、そこに住む貧弱な猫背の男は明らかにその風貌ではないだろう。つまり、その表札を手に入れて我が物にしたいという衝動に駆られるような蓋然性が極めて低いと捉えざるを得ない状況なのである。
 こんな状況にも関わらず起きてしまった事態について、憂慮に耐えられなくなってしまったので、これまでの経緯を振り返りながら、問題の真相を考察してみたいと思う。

 実は表札は何度もこれをつくりなおしてきた過去がある。
 引越してきてしばらくしたある日、ふと表札がなくなっていることに気付いた。郵便局で配達のアルバイトをしたときに困った経験や、まちの外から引っ越してきた余所者の人間の責任として、住む家には表札を出すようにするのが当然と考えているので、入居後すぐに名前を書いた紙を郵便受けに貼っていた。だが自分の行為からではなく、それがなくなってしまっていたのである。
 その時は落ち葉も足元にあったので、風が強かったのかもしれない、何かの拍子で吹き飛んだのだろうと思った。周りを探してみたがすぐには見つからなさそうだったので、つくりなおした。これが1回目だ。自然現象として捉えると、それほど抵抗感もなく、受け入れることができたので、このときはあまり深く考えていなかった。
 その後しばらく平穏な時が流れた。戦争と戦争の間を平和というのであれば、このときは平和だったのだ。言うまでもなく歴史は繰り返されてしまう。
 
 先ごろ、表札がなくなったのだ。
 その日は風が強かったわけではなく、自然現象として吹き飛ばされてどこかへ行ってしまうというのは考えにくかったのである。風という気象条件以外にはどんなものが考えられるだろう。頻繁に起きるものではないので、太陽が昇った、新月だったなどという周期的な現象ではなく、ニュースにもなっていないので、黄砂が来た、気温が高かったなどというその地域に広く起きる状況によるものとも考えにくいだろう。雷が落ちた、ニュートリノがそこだけ高密度で貫通した、といった稀な現象でもないだろう。
 我が家にはポルターガイスト現象のようなことは少なからず起きる。冷蔵庫の中で携帯電話が見つかったり、ポン酢がなぜか風呂場にあったり、我が家にあるモノは家主よりもアクティブでよく脚をつかっているように思う。(ただし家主の物忘れによるところが大きい。)勝手にエアコンがつくことも時折発生しており、部屋が冷えるより早く背筋が凍るくらい体温が下がる斬新な機能が備わった。(リモコンの電池切れによる誤作動という説が一般解だと思われる。)
 そんなこともあって表札が自由に移動する能力を得ることがあったとしても、それは筆者の科学的・論理的説明能力が試されているだけであって、自然界から私への挑戦状であるとみなすことができるかもしれない。それはもう少しそのことに詳しい、もしくは興味関心を抱きやすい人間の知るところで起きるべきであって、自分のように無気力・無関心・無体力の人間の生息環境において起こったとしても、人類の発展には貢献できないのであるのは必然だと思う。
 そんなことも考えたうえで、深く考えず同じものを作り直した。文明の利器のおかげで5分もかからずにつくることができるのは、幸せな社会である。
 だが5日も経たずにそれがまたなくなってしまったのである。

 念のためもう一度作り直した。しばらくは平穏に過ごせたのだが、ある日またなくなっていたのである。さすがに1か月の間に3回発生する事象が、何らかの副次的で偶発的な現象とは言いにくい。こうなると高度な蓋然性をもって何らかの直接的な現象として、表札をどこか家主の知らない場所へと移動させるという、自然現象または人為的行為によるものと認定せざるを得なくなる。
 
 ではこの主たる動力は何なのか。知能指数の低い自分には到底推定することができなかった。こういうときは、インターネットという現代の集積知識の最高峰に頼るに限る。検索するとあるわ、あるわ、驚きの結果がたくさん連なっている。稲川淳二も顔負けの同じ怪奇現象に遭遇していたのは自分だけではなかったのである。
 やはりストーカー、嫌がらせ、などを疑うコメントが多い。だが最も驚愕し注目したのは「表札を集めると受験に合格するという都市伝説」の存在である。
 そんな悪質な行為によって合格するなど、断じてあり得ない。鉛筆を転がした方が確率的に合格率が高いだろう。社会構成にコペルニクス的転換があったとしても、それが善と呼べるものではないはずだし、その行為によって人間の評価が高まるというののなら、その中途半端な悪質性と誰も得をしない結果についての社会的価値の評価指標を疑って然るべきだ。都市伝説といっても、あまりにもバカげている。と怒りを覚えてしまうのだが、逆にホッとしたところがある。これで犯人をイジれるのではないかと。

 そういうわけで、今の表札には強い呪いをかけている。裏面には気分の良くないメッセージをしたためてもいる。ただ呪いの構成は少し特殊である。
 生来自分には、直接明示的に応援をすると大体思い通りにならないという法則がある。ここぞと思う選挙で投票すれば候補者が落選し、画期的判決を期待すれば反対のものが出て、スポーツ観戦で祈ったチームは大体負ける。というわけで「あなたの希望が実力で叶うことを切に願う」ことにしたのだ。我ながらポジティブな行動ができていることを誇りに思う。
 絶対に屈しない、そう強く思う。反骨精神が生きる源となったであろうヒーローは多い。だがそうしたことでまた頭痛がしてきた。これは呪いが利いているせいかもしれない。取り急ぎ、今の自分には表札よりもバファリンが必要なのだろう。
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