NO・OR
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2017-03-26T02:00:00+09:00
思いついたことを毎度計画性もなく登録し、意味もなく公開するもの
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刺激:考えさせられる質問
2017-03-26T02:00:00+09:00
「What would you do if you were a Prime Minister of Japan?」
考えさせられる質問というのは、異なるバックグラウンドを持っている人から受ける方がよりインパクトが大きいように思う。この質問を留学生から受けたとき、どこまでも黙りこくってしまった。
この質問は、何を課題として捉えているのか、何を理想・目標としているのか、そのためにどう行動すべきかをすべて示す内容を求めている。日頃何を考えているのかを問うことで、どんな人間であるのかも一言で引き出そうとするのだ。この優れた質問を初対面の人間に対して投げかけられる彼はとてもスマートだと素直に感じた一方で、普段考えていれば用意できていたであろう答えがまったくもって白紙であった自分には軽蔑以外に与えられる評価がない。その場で答えられなかったことを憂うとともに、帰り道で考えてみたことを書き連ねてみようと思う。
自身は何を課題ととらえているのか。
ひとつは「住まうこと」について、特に「家庭」の定義の限界だ。夫婦別姓、同性婚、難民の無国籍児、シェアハウス・コーポラティブハウジングでの法制課題、国籍や宗教による入居・就職の支障、育児・介護失職、子どもや高齢者・障碍者への虐待、野宿生活者など、どうもベース部分の「暮らすこと」についての支障を抱える人が少なからずいるように思う。自治体レベルでは上位法が支障となって柔軟な対応ができない面が多い以上、国家的な取り組みが必要であり、もし首相であるならばその先頭に立ちたいと思う。
この点については仮に一人でも幸せに暮らせる社会づくりを目指すべきだというのが、持論である。血縁や婚姻をベースにした私人間の共助に頼り切ることなく、一人で生きていく人も、パートナーと生きていく人も、子どもや高齢者と暮らす人も、身寄りのない介助を必要とする人でも、どんな人も文化的な生活を営むことができるようにすべきであると思っている。一人ではどうにもならないことを何とかするのがやはり社会なのである。これはすべての人が同じ暮らしをすることを要求するわけでもなく、自由を保障し、努力や工夫を認め合い、互いの幸福を尊重し合うことができて、自分も他者も人間として生きていくうえで支障を感じなければならないことがなくなるようにするのであれば、新しくても古くても、資本主義的でも共産主義的でもこだわる必要がないだろうというのがベースにはあると思う。ひとことで言えば「生きづらさの削減」であり、ここだけを捉えれば現代の課題への対処に終始してしまう側面もあるが、やはりマイナスをゼロにすることは優先せねば、と考えるのは当然かもしれない。留学生から「アオキガハラ」という言葉が聞かれないような国であるべきだろうと思う。
ドラスティックな政策として掲げるとすれば
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◎家族制度の抜本改革
・戸籍の廃止
・ともに生きるグループ登記制度(血縁・婚姻・性別・国籍・人数・暮らす場所を問わず、何らかの法的手続きを共同または代行できるグループとして構成員の同意をベースに登記)
・行政書類の姓名を分けないフルネーム欄を標準化
・住所ベースの手続き廃止
・扶養家族の枠組み廃止
◎職住近接・柔軟な働き方
・地価抑制(50%減)
・同一労働同一賃金化
・雇用形態の定義廃止
・人材派遣業廃止
・フレックスタイム義務化
◎くらしの総合窓口の設置
…住居・働き方・家族支援についての駆け込み寺的な総合行政窓口
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といったところだろうか。諸問題を生む可能性はあるのだが、フレキシブルな暮らし方を促進するのであれば抜本的に発想を変えることを厭わないでいいと考えている。
さらにゼロをプラスにしていく面も含めて考えてみる。
将来を見据えた「国づくり」をするにあたっての観点では、いつでも自然と何かを学べるような制度設計をベースにした学習機会を設けた方がいいと考えている。それは国家という枠組みに囚われず、多様な視点を自分のものにすることであり、一人一人が気付きを得られるチャンスづくりであり、クリエイティブな情報発信であることこそ、未来型の国づくりだと思う。
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◎海外市民大使交流制度
…バックパッカーには戦争を煽る人がいないと思うので、年齢を問わず海外にどんどん行ってみることを推奨すべきだと思う。抽選で選ばれたら国費補助で1年任期で市民大使として海外訪問をしたり交流イベントに率先して参加できるようにする。その際の休学・休暇・休職で不利にならないよう裁判員並みの保護をする制度を整える。
◎社会人ラーニングデー・ラーニングチケット制度
…就職後にも時短で学業に取り組めるようにするため、決めた曜日に全休?半休を取得できるフレックスタイムを義務化。大学や専門学校だけでなく市民大学やオンライン講座、図書館の利用なども対象とする。業務日程以外の学習で費用補助使えるラーニングチケットと選択的に取得できる。
◎全国民オンライン確定申告義務化
…国民が政治に関心を持たなくなっているのは納税者意識の低下によるところもあると思う。会社員の年末調整は廃止し、全国民確定申告にする。確定申告は年度一括ではなく誕生日ベースで行うことで税務処理は時期分散させる。属性を問わず平等にするため扶養控除・生命保険・地震保険などの控除は廃止。アファーマティブ政策での税制優遇はチケット制で源泉徴収分から還付を受けられる。それらの設定はすべてオンラインで行い、できない人にはセミナーを開催する。
◎ポイ捨て厳罰化・看板税・空家税
…100平方cmあたり年間1000円に色別の税率を乗じた値の看板税を導入し、センスの悪い屋外広告が景観に及ぼす影響を軽減させる。景観を害するポイ捨てや落書きには懲罰的な罰金をかける。限られた公共空間の占有の仕方がどうあるべきかを考えるきっかけとして所有者に税金をかけていく。
◎公共デザイナー・プランナー配置
…グラフィックワークやブランディング、マーケティングを中心とした担当者を全官公庁に設置することを奨励。公務員試験は30代以上の中途採用枠、事務職採用には政策ポートフォリオ審査を導入。企画会議には一般市民を巻き込んだ形を重視し、インハウスでもデザインの力でドキュメントも刷新し、UI/UXの向上を図る。ダサい官公庁のチラシを脱皮して「気付き」にあふれる情報の発信ターミナルにする。
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財源は、省庁一覧で一番なくてもよさそうな防衛装備庁の解体というのが一番スムーズだと思うのだが、外交上のタイミングもあると思うのでここは総合的に考えたい。
にしてもこれだけでは感覚的であまりにも観点が少なく政策力が弱いことが露呈してしまう。やはり、首相になろうと思ったことがないので考え中、としておいた方が良いかもしれない。政治家にもなろうと思ったことがないので適当なことを書いてしまった。話を戻そう。
で、これを全部で英語で言いたかったのだが、
「I hope... everyone lives happily...」
といった、小学生みたいなことしか言えなかったのが恥ずかしくてたまらない。泣きたい。叫びたい。滝に打たれたい。
日本語で質問されるときよりも、英語で質問されるときの方が鋭さが増すのは、答えること以上に英語力の無さをも指摘してくれるのだから涙しか出てこない。視線が痛い。胸が痛い。頭が痛い。
留学生のタトゥーに「起死回生」とある。いままさに酷い有様の淵に立っている。このまま崖から落とされそうなくらいの気持ちだ。生き返れるのだろうか、30歳。
※さて、英語の勉強と、社会の勉強をしようか。]]>
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頭痛:なぜ表札はなくなるのか
2016-08-21T20:00:00+09:00
また我が家の表札が持ち去られた。「また」というのは、初めてではないからである。
表札といっても集合住宅に住んでいるので、郵便受けに差し込む名刺大のカードである。お金にもならないし、他人の名前が書かれた紙切れを誰も欲しいと思うことはないだろうし、盗もうとすることなどあり得ないと思って、30年近い年月を生きてきた。ただそれは大きな過ちだったのである。
仮に百歩譲って、盗みたくなるような表札があったとしよう。ただ外形として名刺サイズの紙状のものという前提で考えることにする。それは金粉がついているものかもしれないし、よっぽど珍しい名前で全国に数人しかいないような苗字なのかもしれないし、立派な門構えの家で将来こういう成功を収めたいと思えるようなものかもしれないし、憧れの有名人と同じ名前でサインの代わりに手に入れておきたいと思うものなのかもしれない。
でも今回持ち去られた表札はそのどれにも該当しないのである。安物のインクジェットプリンターで出力したアルファベットの文字が書かれた紙であり、100円均一ショップでも印鑑が売っているくらいのどこにでもありふれた苗字であり、木造アパートの入り口の門扉はキーキー音が鳴る。もしかしたら有名人に同じ苗字の人はいるかもしれないが、そこに住む貧弱な猫背の男は明らかにその風貌ではないだろう。つまり、その表札を手に入れて我が物にしたいという衝動に駆られるような蓋然性が極めて低いと捉えざるを得ない状況なのである。
こんな状況にも関わらず起きてしまった事態について、憂慮に耐えられなくなってしまったので、これまでの経緯を振り返りながら、問題の真相を考察してみたいと思う。
実は表札は何度もこれをつくりなおしてきた過去がある。
引越してきてしばらくしたある日、ふと表札がなくなっていることに気付いた。郵便局で配達のアルバイトをしたときに困った経験や、まちの外から引っ越してきた余所者の人間の責任として、住む家には表札を出すようにするのが当然と考えているので、入居後すぐに名前を書いた紙を郵便受けに貼っていた。だが自分の行為からではなく、それがなくなってしまっていたのである。
その時は落ち葉も足元にあったので、風が強かったのかもしれない、何かの拍子で吹き飛んだのだろうと思った。周りを探してみたがすぐには見つからなさそうだったので、つくりなおした。これが1回目だ。自然現象として捉えると、それほど抵抗感もなく、受け入れることができたので、このときはあまり深く考えていなかった。
その後しばらく平穏な時が流れた。戦争と戦争の間を平和というのであれば、このときは平和だったのだ。言うまでもなく歴史は繰り返されてしまう。
先ごろ、表札がなくなったのだ。
その日は風が強かったわけではなく、自然現象として吹き飛ばされてどこかへ行ってしまうというのは考えにくかったのである。風という気象条件以外にはどんなものが考えられるだろう。頻繁に起きるものではないので、太陽が昇った、新月だったなどという周期的な現象ではなく、ニュースにもなっていないので、黄砂が来た、気温が高かったなどというその地域に広く起きる状況によるものとも考えにくいだろう。雷が落ちた、ニュートリノがそこだけ高密度で貫通した、といった稀な現象でもないだろう。
我が家にはポルターガイスト現象のようなことは少なからず起きる。冷蔵庫の中で携帯電話が見つかったり、ポン酢がなぜか風呂場にあったり、我が家にあるモノは家主よりもアクティブでよく脚をつかっているように思う。(ただし家主の物忘れによるところが大きい。)勝手にエアコンがつくことも時折発生しており、部屋が冷えるより早く背筋が凍るくらい体温が下がる斬新な機能が備わった。(リモコンの電池切れによる誤作動という説が一般解だと思われる。)
そんなこともあって表札が自由に移動する能力を得ることがあったとしても、それは筆者の科学的・論理的説明能力が試されているだけであって、自然界から私への挑戦状であるとみなすことができるかもしれない。それはもう少しそのことに詳しい、もしくは興味関心を抱きやすい人間の知るところで起きるべきであって、自分のように無気力・無関心・無体力の人間の生息環境において起こったとしても、人類の発展には貢献できないのであるのは必然だと思う。
そんなことも考えたうえで、深く考えず同じものを作り直した。文明の利器のおかげで5分もかからずにつくることができるのは、幸せな社会である。
だが5日も経たずにそれがまたなくなってしまったのである。
念のためもう一度作り直した。しばらくは平穏に過ごせたのだが、ある日またなくなっていたのである。さすがに1か月の間に3回発生する事象が、何らかの副次的で偶発的な現象とは言いにくい。こうなると高度な蓋然性をもって何らかの直接的な現象として、表札をどこか家主の知らない場所へと移動させるという、自然現象または人為的行為によるものと認定せざるを得なくなる。
ではこの主たる動力は何なのか。知能指数の低い自分には到底推定することができなかった。こういうときは、インターネットという現代の集積知識の最高峰に頼るに限る。検索するとあるわ、あるわ、驚きの結果がたくさん連なっている。稲川淳二も顔負けの同じ怪奇現象に遭遇していたのは自分だけではなかったのである。
やはりストーカー、嫌がらせ、などを疑うコメントが多い。だが最も驚愕し注目したのは「表札を集めると受験に合格するという都市伝説」の存在である。
そんな悪質な行為によって合格するなど、断じてあり得ない。鉛筆を転がした方が確率的に合格率が高いだろう。社会構成にコペルニクス的転換があったとしても、それが善と呼べるものではないはずだし、その行為によって人間の評価が高まるというののなら、その中途半端な悪質性と誰も得をしない結果についての社会的価値の評価指標を疑って然るべきだ。都市伝説といっても、あまりにもバカげている。と怒りを覚えてしまうのだが、逆にホッとしたところがある。これで犯人をイジれるのではないかと。
そういうわけで、今の表札には強い呪いをかけている。裏面には気分の良くないメッセージをしたためてもいる。ただ呪いの構成は少し特殊である。
生来自分には、直接明示的に応援をすると大体思い通りにならないという法則がある。ここぞと思う選挙で投票すれば候補者が落選し、画期的判決を期待すれば反対のものが出て、スポーツ観戦で祈ったチームは大体負ける。というわけで「あなたの希望が実力で叶うことを切に願う」ことにしたのだ。我ながらポジティブな行動ができていることを誇りに思う。
絶対に屈しない、そう強く思う。反骨精神が生きる源となったであろうヒーローは多い。だがそうしたことでまた頭痛がしてきた。これは呪いが利いているせいかもしれない。取り急ぎ、今の自分には表札よりもバファリンが必要なのだろう。]]>
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決断:苦渋の思案
2016-06-05T16:00:00+09:00
先日出席した友人の結婚式の引き出物の中に、カタログギフトがあった。カタログを見るのがとても楽しい。注文などしなくても眺めているだけで心地よい気持ちになる。だが、いま重大な局面を迎えている。そろそろ何を注文するかを決めるべきときだと思うのだ。問題は何を選ぶべきかということであり、国政選挙で6年も国の将来を任せる人物を選ぶよりもはるかに厳しい決断を迫られるのである。
いま実に悩んでいる。人生においては、すべての決断が将来を左右する。人生においてはすべてが本番であり、決断の連続であり、誤った判断をしてもゲームのようにリセットして時間を元に戻すことはできない。そう、このカタログギフトを選ぶことによって、どんな明日が待ち受けているのか、私にも、そして贈ってくれた新郎新婦にさえも、誰にもわからないのだ。
手元にあるカタログにはたくさんの商品が綺麗な写真とともに並んでいる。食器やタオルといった定番から、雑貨、食品、温泉チケットなどジャンルもさまざまである。すべてのものに目移りしてしまい、優劣をつけるのが困難を極める。人間の優劣はすぐに決めることができる。自分よりもその他のすべての人の方が優れているという、一次不等式が成立するので、まったく迷うことがない。だが、すべてをカタログ化して並列してしまうと、どれもが良さそうに見え、一方でどれもが何か相応しくないところがあるのではないかという生真面目な猜疑心のはみ出しが、判断要素になってしまうような気がして、甲乙をつけることができない。Googleの検索結果ようなランキングがそもそもないのである。こういったところでは、自分もデジタルネイティブなのだろうかと、普段の発想の着眼点の諸問題を感じさせるところでもある。
ではまずジャンルを決めよう。食器や調理用具などのキッチン雑貨にするか、タオルなどの生活用品にするか、はたまた財布やカバンといったファッション小物にするか、いやいや消費してしまうことで家の中に貯まらない食品にするか。2名様の温泉チケットは独り身で消費するのが難しそうだし、我が家には子どもも居ない(霊的なものとして同居している可能性があるかもしれないがそれは除く)ので玩具や子供用品も避けることにする。選択肢を絞れるということの喜びを感じられるのは実にセンター試験以来だろう。ページをめくっていると、おっとここで、アウトドア用品やガーデニング用品、スポーツウェアなどもあることに気付く。悩ましい。
必要性という観点から絞ることにしてみよう。まず料理にこだわる方ではないので、鍋や食器の必要性が高いわけではない。フライパンや片手鍋は普段使いのものがあって汚れてきてはいるものの、特に買い替えるタイミングでもない。天ぷら鍋や卵焼き用の鍋もそれほど使用頻度が高くもない。タコ焼き器は既にあるし、ヨーグルトメーカーもホットサンドメーカーも、朝起きてから数十分で家を出る男の生活ではきっと3日も連続で使うことはない。食器も、誰かが遊びに来ることなどこの1年以上全くなかったので、候補から消しておく。ペアカップがあっても、背後霊と一緒にティータイムを楽しんでしまえば、この国ではきっと通報されてしまうだろう。世知辛い。2杯分が一緒にできるコーヒーメーカーまである。こんなものを所持してしまうと処刑されてしまう危険性を考えなくてはならなくなるかも知れない。一体誰が弁護してくれるのだろうか。
ではファッション小物はどうだろう。カバンがたくさんある。カタログの中にもたくさんなのだが、押し入れの中にもたくさんあるのだ。つまり多くは使われていないまま眠っているのである。いま断捨離のマイブーム(といっても10分前に始まった)であり、箪笥の肥やしを増やすことにはいささか抵抗があるので、これも避けておこう。ベルトなどの消耗品は候補になり得る。だが結婚式の余韻に浸れる幸福感のおすそ分けタイミングのこの機会に、普通のものでいいのだろうか。せっかくなので特別なものを選ぶべきなのではないか。そう考えると本命にはできない。同じ理由でタオルも普段使いのために選ぶのは満点の回答ではないだろう。困った。他にはないのか。
ないわけではない。食べ物もおいしそうなものが並ぶ。お菓子、肉、ご飯の友、美味しそうだ。だが。(「だが」という言葉の多用によって、ブラックマヨネーズの漫才並みの逆説の接続詞を氾濫させているのは反省しているが)無論ケチをつけたいわけではない。このお取り寄せ感のある食品を食べるときに、いかにして幸福感の力量を最大化して、コストとなる無駄を最小化(=享受する者の心が元から温まっている状態で心の温度をマイナスからゼロにするための消極的な幸福感の消費を抑制すること)して、素材そのものが持っている「生なるパワー」を活かせるかということについて、自信がない。きっと美味しいはずだ。でもそれを深夜1時頃にマツコデラックスが出演する番組を見ながら寝転がって夕食を食べている堕落的生活の中で消費することを考えると、申し訳なさが先行してしまうのである。神様に罰せられる。
では選択可能なのは何か。目に留まったのはなぜか園芸用の刈込狭である。あろうことか剪定用鋸とセットになっている。このコンビネーションに、テレフォンショッピングのようなドラマ性があるのはなぜだろう。不思議だ。庭のないアパートに住んでおく人間の心を踏みにじっている。憎い。
ビーチテントなるものもある。東京都内の奥地でガリガリ色白という自分の状態に対して喧嘩を売ってくる秘技を内包している。ちゃっかりグラスファイバーを使っているあたりが、スペックが気になるおじさんの性を挑発していると言える。
もっと危険球もある。それはスペースペン。宇宙でも使える唯一のボールペンと書いてある。なんだそれは。流線型のフォルムに真鍮製のボディ。不思議とくすぐるものがある。東急ハンズにあったら、まず手に取って書き味を試すために「あ」を50回ぐらい書いてしまうだろう。だがここで冷静になって考えてみよう。パソコンを使う生活でボールペンを使うことすらほとんどどなくなってきているのに、まして宇宙まで行ってボールペンを使う日が自分に訪れることはあるのだろうか。その頃まで生きていたいと思うなら、もっと健康的な生活を心がけて置くべきだろう。私には100年ぐらい早いかもしれない。そう思いだすと、一気に何万光年も先まで候補としての位置づけが遠のいていく。そうだ、100円ショップで売っているジェットストリームやサラサの書き味の良さは、日本の誇りだ。アメリカ製などに気持ちが靡いてしまっては、愛国心がないと言われてしまいかねない。君が代や日の丸や自衛隊に対して表わすのが愛国心なのではない。この国で生まれたすべての価値や文化や感情を愛せるかどうかが問われているのだ。ペンは剣よりも強い。私はこの国の100円で買えるボールペンをこよなく愛している。まだ引き出しにはストックが10本ぐらいあるはずだ。ここで折れてはならない。
ページをめくると、出てきたのはコードレス半田ごて。こんなの反則だ。ダメだ。絶対に年に1回も使うことはないのに、なぜ欲しくなるのだ。ダメだ、誘惑に負けてはならない。ドン・キホーテで2時間悩んで心を落ち着かせて買わなかったあの日から、もう作るものを決めずに半田ごてを買うのは絶対にしてはいけない重罪にあたることだと胸に刻んだのだ。電池式。そんなことに揺るがされてはいけない。確かにあのとき、このコード邪魔そうだなと思ったことはある。中学の技術家庭科を思い出してみよう。ラジオの配線をつないだときの至福のひと時。あの独特の感覚をこの国の教育を受けた人なら覚えているだろう。そして、ボールペンのような細さならもっと気軽に半田ごてを使えるのではないか、シャーペンのように半田自体も内蔵できるようになったらみんなペンケースに半田ごてを入れて持ち歩ける素敵な時代が来ると、誰もが輝かしい未来を悟ったと思う。それに近い。このカタログは罪作りである。こんなところにそんなものが登場すると思っていないところに、載せるのだから。ダメだ、ダメだ、誘惑に惑わされない信念だけが、明日の自分を形づくるのだ。冷静にならなくてはいけない。目を閉じて深呼吸をするのだ。
ここですべてのページを一通り見たことになる。実際にはこういった行為を毎週末に行っているので、3、4回やっている。そして一つの結論に至る。今は決められない。だがいつかきっと決心がつく日がやってくるだろう、と。]]>
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編年:肩越しに未来を振り返って
2013-01-01T19:00:00+09:00
自身に特に強い影響を与えたと思うことはなんだったのだろうかと考えてみると、特に不意に訪れた変化とともに、関連するメディアを残しておこうと思う。
(1) 生活空間の変化 → 快適な住環境とは何かを考える時間の増加
前の職場の方の精神的な支援もあってこその実現した仕事内容の変更は、想定の範囲内だと言えるのかも知れない。一方、転居に伴う住空間の変化が与えたことはいくつかある。
ひとつは住意識。転居先は東京北部にある往年の計画住宅都市。築年数はあったものの、開口部の大きさや街路樹のある道路に面している点が特に気に入って、入居を決めた。そのときは全然無知であったものの、街の成り立ちを知るにつれて、周辺住民の意識の高さに納得するに至る。まちづくり通信が発行されたり、文化的なイベントが開催されたり、普段も家の前の道の掃除をする人の姿を見かけることが多いのだ。
転居前は築浅の見た目はしっかりしたマンションだったが、清掃は管理会社任せでゴミの出し方すら守れない住民もいたり、設備のレベルと住民のレベルのギャップには相当驚かされ、ゴミの日の度に落胆を感じるばかりだった。
アウトソーシングや住と職の意識の分離によって失われる感覚や意識について、非常に大きな危機感を覚えたのだが、対照的な住カルチャーへの転入によって良好な環境を快適に維持することの責任を感じるようになった。おそらくゴミを適切な日に出すことができない人には、国も人も仕事も自分自身も愛せる可能性はないのだろうと思ってしまう。美しい国を目指す人を選んだ国民である以上は、街的な部分での感覚を磨く必要があるような気がする。
■オンラインアイディアボード「Blabo!」
「Q&Aではなく、Q&I(アイディア)です」の言葉通り、まちの問題についてアイディアを出しあって解決していこうとするアプローチを実践する。ファシリテーション能力が高いなと感じられるテーマ設定が光っていて、他の人のアイディアに触れることで楽しみながら考えられる。
(2) 通勤過程の変化 → 間接的に受ける影響への関心
さて転居によっての変化はもうひとつ。広告における情報とメッセージの割合配分についてだ。
自宅から自転車で10分の通勤が、新宿と池袋を経由して電車で30分に変わったことで、電車内の広告を見る機会が増えた。だが、思い出せる広告に触れる機会が増えたかというと真逆である。山手線の車内広告などはおそらく一級品の広告現場であると思うのだが、こんなにあるのに印象に残らない、というのが実感なのだ。
インパクトだけが重要視され、広告効果が高いとされる激しい色を使い、太いゴシックで概ね紙面の8割程度のテキストで埋める形式の、いわゆる「楽天型」広告(例:ビックロ)の多さである。マンガ盛りのお茶碗のように情報はたくさん載っているのだが、どうしても美味しさが感じられない。あたたかみのあるメッセージ性の度合いが弱まったことで、奥行や未来に伸びる線分の可能性が失われたようにしか思えないのである。こういうゆとりのなさに不景気感を感じてしまうので、世の中は負のスパイラルに陥っていくのではないかと考えずにはいられなくなる。いずれ、残っていた余白もさらに失われていくのだろう。無論どんなに情報が出されても、経済の大原則としての需給曲線に従って、その必要性は同質化によって価値は希釈されていくことになる。そして「感じること」を忘れた人が、街を歩くだけの都市の空虚化につながっていくのではないかという懸念が募るばかりだ。
そこでどう防ぐか。広告や媒体からメッセージを受け取ったら、身近な社会に「レゾナンス」することにした。今年はiichikoのポスター広告に癒され焼酎はいいちこを購入し、残念ながらビックロにはヒヤヒヤさせられたため別の電機屋を利用しつつ、「いいね」ボタンに相当する評価を、Twitterという文明の利器の活用を中心にやっていこうと思うようになった。ソーシャルメディアである以上は、社会的に有意義な形で使っていけたらと思う。
■Grow!
「コミュニティをつくる。サポーターをつくる。」を合言葉に、プロジェクトやコミュニティとサポーターとの連携をつくるため、決済などの仕組みを提供するウェブサービス。
クラウドファンディング「CAMPFIRE」とは違い、プロジェクト単位の総額目標などはないので、他人の動向に押し流されず、真摯に「好きだ」と評価しやすい。
(3) とある計画の破綻 → 可能な方法の模索
仕事と趣味のその間。そんなことを模索しているのが現段階である。仕事は仕事で割り切って、趣味は趣味で楽しむというスタイルだけでは満足できない人は、自分だけではないだろうと考えてきた。客のための仕事と自分のための生活が分離してしまうことは、極めて危険な形で誤ってしまったお客様至上主義が生まれてしまった元凶のひとつではないかと思っている。生活を犠牲にする仕事をして、社会を犠牲にする生活をするなんて、なんのための時間の連続性なのか分からなくなる。だからこそもっとその中間色を出せないかと考えてしまうのだ。
しかしながら今年一年身の回りの人に聞いてみると「休みの日には仕事のことを一切考えたくない」派が多い。じゃ、仕事しなきゃいいのに、と思ってしまう。嫌々やる仕事による弊害はゼロではないことを意識してみたらいいのではないかとアドバイスしたくなる。分けなければいけないことも少なくないが、両者に活かせることを各々閉鎖的に考えるのはいかがなものかと感じるばかりだ。
ひとつ計画があった。「その間」を増幅する場の創造であったのだが、自身の能力不足で破綻に陥っている。運用維持の可能性が薄く、もう一度アイディアを練り直すことと、時代環境を再調査することにして、白紙撤回することにした。そんな中で出会った言葉がある。
「最大のリスクは、たくさんの人が、あなたを説得して夢をあきらめさせようとすることだ。世の中には、うまくいかない理由をあげることが大好きな人が多すぎて、『応援しているよ』と励ましてくれる人が少なすぎる。」(ジョン・ウッド)
自分が自分に対してやってしまっていることだな、と思う。他の人に対しても同じようにしてしまっているのだろうな、と思う。応援って難しいなと感じる。
自分の中に世の中をつくって全然「世」じゃない虚構に浸っている、というのもある。着実にすることと勢いに乗ることとのバランスも図っていきたい。もっと風を感じなければ、と思うようになった。今からでも可能な方法を考える、それが年を越えてのタスクになりそうである。
■ジョン・ウッド『マイクロソフトでは出会えなかった転職』
途上国への図書館建設や学校図書寄贈を行うNPOルームトゥリード創立者の自伝本。「僕が考えたいのは、『できない理由』じゃなくて『どうすればできるか』ってこと」という言葉が印象的。前述の言葉も本書より。(ランダムハウス講談社、矢羽野薫訳、2007 ── John Wood / Leaving Microsoft to Change the World: An Entrepreneur's Odyssey to Educate the World Children)]]>
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無職:セピア色のみかん箱
2012-06-01T00:00:00+09:00
退職を決意したのには強烈な出来事があったというわけではない。少しずつさまざまな事象や想いが重なり合い、方向性を帯びてきたのであって、無意識の閾値を徐々に超えてきたときに、ふと上司に想いを伝えていた次第。そんな経緯もあって、周囲の人からは「どうしてやめるのか」という一点の質問を多数投げかけられるばかりだった。
理由は大きく3点だと思っている。それは「もう少し違う角度で何かできないかと思ったこと」、「つくることに取り組みたいと思ったこと」、「もっと情報技術を尊敬したいと思ったこと」。
もう少し違う角度で何かできないかと思ったこと。
仕事内容としては、金融関係のシステムを多くアウトソーシングで担当していた都合か、オンデマンドの運用ルールやマニュアルに従ってのサービス提供が大半だった。予期されていることに対して、想定の範囲の結果が得られるようにすることが、安定運用のためのベースとなる。利用者が期待する機能を提供するシステム運用の場では、これは自然と言えば自然で、重要と言えば重要で、根幹といえば根幹だと思う。秩序ある設計に基づく物事というのは個人的に納得度が高く、資質としてはそういうのに向いている方だと感じる。一方で視点を変えて見ればマニュアル人間であったり前例主義だったり、前向きではない表現もされることがあるような感覚でもある。安定に対して責任を持つ以上、危険は最大限回避しなければならず、新しいことへの欲求が多少抑制されてしまう場面というのは少なからずあったように思う。ただこの空気やマインドを知ることができたのには感謝の念が絶えない。インフラ・公共・医療福祉・その他社会の様々なサービス提供やものづくりに携わっている人への尊敬や感謝が自然と起きるようになったのには、多少は大人になったかと感ずるところでもある。
ところが実際にその立場であることを意識している時間というのは、自分の中で多くの妥協がなされているような気がしていた。深夜の障害でシステムの担当者に連絡して対応の指示を仰ぐとき、「確認済みのエラーです」「問題ないので続けてください」「再試行してダメだったら諦めます」という言葉を聞くのは残念だった。もっといろんな手が打てないだろうか、自分にできることは他にないのかと考えさせられるばかり。無論ミスも多く、良い結果を残せてこなかった一人の人間が思っていることなど、井の中の蛙 大海を知らずというか、とても小さな馬鹿げた悩みごとであったのだと思うが、回数を重ねるうちに、これまで形づくられたもの以外のスタイルのサービス提供ができないか、ゼロベースで試してみる必要があるように思えてきた、というのが理由の1つ目となった。
つくることに取り組みたいと思ったこと。
現場でエラー対応を長くしていると、システムの欠点に思考が偏っていく。頻発する問題はすぐに直せないのかとか、セキュリティのために犠牲にしているものが多すぎないかとか、やったことがないことを批判する姿勢が自然と身についてしまった。もしかしたら昔からだったのかもしれないが、その度合いは強くなった気がしている。「じゃお前がつくれよ、変えてみろよ」と言われた時の担保がここのところ何もない。知識が圧倒的に不足していて、対抗できない。対抗要件として必要なのはそれだけではないにせよ、何らかの酌量要素にはなるくらいの材料はつくる必要があろう。
IT運用という仕事は他の業界からすれば気にも留めないような分野だと思う。データセンターという存在自体にも疑問符が浮かぶ人も多いのではないだろうか。インフラ関係全般に言えることだが、正常に動いている間は意識されにくく、障害や不具合が発生したときに利用者の不幸感を一気に生じさせる、というネガティブな側面を持っている。一見そういったサービスはストックのようでもあるが、実はフローであって、製造業における製品のようにサービス自体が日々つくり続けられていると捉えるべきであろうと思う。ただどうしても目に見えない時間幅のある継続した商品でしかもアウトソーシングというのは、当事者性の問題としてつくっている実感が薄れていく、どうも内在的な機構があるのではないかと考えてしまう。これも勿論なこと一面的な捉え方に過ぎないのだが、その悲観的な見かけの仕組みに悪くも陥ってしまったのが自分だった。
振り返ってみると幼少期から、無責任の世界観の中で自己満足の小さな試行錯誤と完成度の低い曖昧な感覚表現に頼って生きてきた。とかくプロフィールに書くのがテレビゲーム全盛期の小学生時代の砂場勤務であって、その根本的なものは未だに変わっていないように思う。成長しろよと言われればそれまでだが、25年変えられなかったことを変える労力の泉というのはもう内在していないように感じている。であればそれに柔軟に対応する方法として、形を少し変えて機能化するのがベターであろうと思っている。大きくて派手なものが好きなわけじゃない、自分自身が外見で目立ちたいわけではないが、人と同じ枠組みに組み込まれるのが嫌いで、イチからつくったものでは一目置かれたいという、偏屈な感情の処理方法を検討しなければならない。
現代社会の人生の中でやはり大部分を占めるのは労働時間になるかと思う。3年しか働いていない分際で仕事観を語るなどクレームは必至だが、自分は暇つぶしに長けた動物なので趣味ならいくらでも後から増やせる気がする一方、自律性がない甘ったれたゆとり人間(=年代的にはいわゆるゆとり教育の一世代前だが)として、何らかの迫るものがなければ活動的になれないことから、多少は半強制的な構造を活かして何か付加価値を生成していくことが目的達成の近道であるように思う。そこでしばらくは職人のように何か四六時中打ち込むような働きができればという浅はかな考えを抱いた。そうしたとき、体力的にも精神的にも弱い自分が頼りにできるのは、自然な雰囲気との一体感ないし納得感という名の一般に言う好きという感情しかなかった。
結局のところ、自分で納得するものを得るには論理的に自分を変えるか、自分で探し当てるか、自分でつくるかになってくる。体制に対して自分を意図的に変形するというのが苦手な山月記でいう悪いところだけ李徴型の人間にとって、1つ目の選択肢は望み薄である。一方3番目を実行するにはつくることができる能力が必要になる。それがまだ自分に備わっているようには思えない。となれば今できるのは2番目ということになり、その中で3番目の選択肢を持てるようにしていく、さらにその上で1番目の技法を習得できればということになる。これは生きることの選択肢が多い方がより幸せだという価値観に基づく論を参考にしている。そして優先順位を自分の現状と性格に合わせて判断したということである。
結局のところ無能な小さい人間なのだが、その無能さや小ささと付き合って生きていかなければならない。技術もない、知識もない、資金もない、バイタリティもパワーもないし、申し訳もない。人当りよくものを売ることはできないし、空気を読んだ気遣いや心に届く言葉も思いつく能力もない。無論、つくるセンスや技術や知識も皆無なのだが、自分に自信がない以上は自分以外の物事を商材にするしか選択肢がない。
やや矛盾や課題を抱える持論ではあるが、そうしてつくることを実験できる方向性に近づきたいという考えに及ぶ。所属する千人クラスの企業体とそこにある大規模なシステム群と背後に控える巨大な生活体を自分のつまらない実験場に選べるほどの責任感を持ち合わせていない。ならば外に出るしかないということになったのが2つめの理由にあたる。
もっと情報技術を尊敬したいと思ったこと。
個人的な価値観で言えば、情報技術が人を幸せにできることというのは、大きいもののやはり不足もある。テレビを集落で初めて買ったり高齢になってからワープロを始めた新しい機械好きだった祖父が、90代でiPadを手にしたとき「ふーん」程度だったのには新鮮だった。多少は技術に関心を持っている感じだったが満足しきれていない印象で、彼の生活感覚との乖離が必要性による充実感を生み出さなかったことを痛感させられた。クレジットカードも彼は持とうと考えなかったのでこう考えることに無理があるのかとは思うが、Apple製品の技術力が生身の人間の生活感に圧倒的な負けを喫したというのは衝撃的で、未だに思い出して考えさせられる。一方で、言わずもがな人の生活を快適にし、想起させ、圧倒的に進化させてきたのは紛れもない事実だと思う。
アナログとデジタル、人間と機械、生活とビジネス、この境目にある障壁を埋めることが当面の理想だ。システム的なものに対してユーザインターフェイスやデザインという観点も持ちながら携わりたい。そんな想いが募るのは、やはりバックヤードでの情報処理技術やシステムを支える人・モノ・コトを尊敬してのこと。toCのウェブも、toBの要素がでかいシステムも、その他さまざまなサービスも表面的に見えているのはまさに氷山の一角で、大量の計算処理によって支えられ、スムーズ化されて利用する人間に接する。そのダイナミックな工程が好きなんだと思う。
情報技術と言う分野でも、特にそのファクターに対してより具体的なアプローチを踏みたいとの思いのが、ここのところ強くなった。ITをデザインすること、文脈を編集すること、データをストーリー化することなど。人間をデジタル化するのではなく、デジタルデータを人間にスムーズに触れさせる、ユニバーサルなストレスフリー環境をつくるための実験をしてみたい。
理由の3番目はそんなところにある。
ここに理由を3つに分けて書いたものの、内容自体はズレていて、つながっている。螺旋状の思考過程で退職に至ったということの表れだと思う。悩み始めて半年余り、今でも続けたい気持ちは相当程度に残っていて、一つ目の職がこれではなかったら転職時にこの会社を受けているだろうと予想している。ただ、いま飛び出してみることに、良くも悪くも何かのきっかけにはなりそうという薄っぺらい期待感と宇宙的な不安感を覚える。
「次は金融関係?」「小説でも書くの?」「店開くの?」「出家?」「旅に出るの?」「実家帰るの?」、と自分から言わなかっただけに、いろいろ言われる。今回、会社を辞めると言ってみて、周囲の人が自分のことをそう捉えているのかと分かって、とても勉強になった。誰一人として「次もIT関係?」とは訊かなかったのがただただ複雑な気分であるが、退職日まで休まず通常通り勤務できたこの仕事もこの職場もこの感覚も心地よいフィット感があった。やっぱり人事は見る目があったんだなと切に思うし、信じてよかった。
ここに書くべきではない、もしくは書く必要がないことも理由としてはある。日頃のちょっとした出来事での感情などは、必ずしも否定的なものでなくても、気づかないうちに積もるものだ。だがやっぱり辞めると決めてからはそんなものは本当にどうでもよくなるもので、自分の中での優先度の付け方の曖昧さを感じるばかり。周囲の環境的なものではなく、自分の勝手な都合での判断というのが立証される。
お前がやりたいこともわかるから応援するよと言ってくれる人、社内でも他の仕事があるけどやってみないかと言ってくれる人、お前ってやっぱりろくな死に方しなさそうだなと笑いながら言ってくれる人、昔から何かしでかしそうな気はしていたと明かす人、驚く人、残念がる人、嬉しがってほくそ笑む人、とかく心配してくれる人、さよならは絶対に言わないと言う人、いろいろいて本当に嬉しくて言葉にならなかった。自分があまりにも寂しがりやなだけに、最後まで自分から切り出せなかった人も多かったので非常に申し訳ない。尊敬できる面を持つ諸先輩や新旧の上司、個性的な人が多かったように感じる職場の皆さんには感謝で言葉もなく、かけた迷惑分の貢献ができなかったのをジャンピング土下座して謝りたい。直接会う機会が少なくなるのは甚く残念でならないが、今後とも交流を続させてもらいたいという思いが甚だ強い。
明日からの予定が何もない。そんな経験は初めてで、人生の中で何の組織にも属さなくなるというのも稀な感覚だ。半直線上に延びる真っ白な今後を、3年前に使った段ボールのみかん箱に再び囲まれる東京の隅の新居で、何ができるかと何をすべきかを考えたい。何もないところからつくることを試す一歩として。
未来はまだ何も決まっていない。ただそれだけが決まっている。]]>
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