理解:わからないことがわからない

 「『理解する』と『わかる』は違うと思う。」
 ある人の放ったその言葉が、なかなか頭から離れない。両者の違いについて、ある一面では「理解」でき、ある一面では「わからない」のだ。この感覚はどういうことなのか、数日経ってもまだ整理がつかない。
 「わかる」とは、字の通り「分かつ」「分ける」からくるものであって、あるものについて他のものとは違うと判断できること、その基準が自分の頭に備わったということを意味する。他との違いを根本的ではなくても単に一部的にでも認識できれば、「わかる」という状態になる。
 一方、「理解する」とは「事理を解きわけること」が広辞苑の一番目に挙げられる意味である。物事の理について他のものとの差異を見いだし(内部的なものとして)、(但し1つのものは他者との関連なしには存在し得ないということを前提に考えれば)関連の絡まりを整理できる(も必然的にひとつの要素となるからこれも含める)こととなる。その場合はそのものの特質を内部的にも外部的にも分けることになる。理解するは対象を包括的に「わかる」ということを意味するので、「理解する>わかる」になるのではないかと考える。
 ちなみに、「理解する」の語源は「大理石の眼をみつけ、そこに鑿(のみ)をあてて一撃で大理石を割ること」(転々引用/振り仮名は本記事筆者による)井上淳「快感『あっ、分かった!』を求めて」(なお、資料はGoogle検索によって検出されたもので原文筆者の管理の態様を考慮しての引用ではない)だという。
 つまり、「わかる」というのは表面的であって、「理解する」が深層的であるというイメージを得たわけである。(なお、上述の展開では「もの」と記しているが、「こと」であっても同じではないかと考えている。)

 しかしながら、もっと大変なのはその表面に顕れるものと、内面的な理は一体であるはずであって、どこまでが内部的でどこからが外部的かなどとは分けられない。となると、「わかる」と「理解する」は分けられないのであって、結局のところそれらの差異は「分かったようで理解できない」のである。
 そういったことを考えていると、冒頭の「違う」ということを把握している人をちょっと尊敬したくなる。

 世の中でシームレス化が進められるにつれて、「わからない」ことはどんどん増えていく。「わからない」以上「理解できる」わけがないわけで、ますます自分の頭の中は整理できないことばかりで、混沌とするのだろうと思う。とすれば「分からないことが分からない」(分かっていない点が何か分からないということと、分からない状態と分かっている状態が分からないということのどちらをとっても同じものとして)ということが連鎖的に増大し、分からないことでの不快感も等比級数的に増大する可能性を孕んでいて、どう処理していいのかを考え出しては果てしない道を進んでしまうことになる。
 そして、やっぱりまた悩む。
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